どうも、いちきんぐです。
寒いですね、みなさんいかがお過ごしでしょうか。
今回はライブを終えての考察記事になります。遅いとか言っちゃあいけねえよ、お嬢ちゃん。
今回は目次つけました↓
はじめに
東京ドーム。かつてμ’sとともに、たくさんの人たちが「いまが最高!」と何度も何度も叫んだ場所。
その場所で、Aqours 4th LoveLive! ~Sailing to the Sunshine~(以下Aqours4thライブ)が先日開催されました。私は1日目のライブビューイングと2日目の現地で参加しました。
4thライブの直前に上げた記事(Aqours4thライブに寄せて(2)――〈始まり〉の場所としての東京ドーム - 瞬間を閉じ込められるのかなん。)で私は、東京ドームという舞台が持っている意味を考察しました。そこで私は東京ドームを、μ’sの〈終わり〉をではなくAqoursの〈始まり〉を象徴する場所として語り、次のようなことを書きました。
“WONDERFUL STORIES” と名づけられた航海を経たAqoursが次なる航海への “ミライチケット” を手にするのに、最もふさわしい場所―― Aqoursの物語にとってはそれこそが東京ドームなのだと、私は思います。
東京ドームは、幾多の経験を経て大きくなったAqoursの新たな〈始まり〉の場所としての役目を果たすことになるのだろう。そんな感じのことは私は考えていたわけです。
しかし、それが具体的にどのようなものになるのかということに関して言えば、具体的な予想はできていなかったなと思います。
私は、これまでの“WONDERFUL STORIES” (=1期から2期までの軌跡)を振り返るベストセレクションのようなライブなのだろう程度にしか考えていませんでした。
Aqours4thライブは、その予想——それは期待でもあったわけですが——にしっかりと応えつつも、それをはるかに上回るライブでした。
では、東京ドームは具体的にどのような仕方でAqoursの新たな〈始まり〉の場所になったのでしょうか。
Aqours4thライブは具体的にどのような意味でAqoursの〈始まり〉のライブとなったのでしょうか。
本記事では、これを明確にするために、私が驚かされたポイントを次の3点に絞って、振り返りと考察を行っていきたいと思います。(なお基本的に1日目と2日目をまとめて振り返っていきます)
1.浦の星交響楽団と加藤達也さんによる演奏
なんといっても我々をまず驚かせたのは、オーケストラのセットでしょう。
会場の照明が落とされるとともにモニターに映された「浦の星交響楽団」と「Conductor 加藤達也」の字幕。
そして鳴り始める、耳慣れた——しかしフルバージョンかつ生演奏で奏でられた——開幕曲「Main Theme of LoveLive! Sunshine!!」。
この時点で、この4thライブがこれまでとは全く違ったライブなのだということを私は(おそらく他の方たちもそうだと思いますが)思い知らされることになりました。
加えて、ライブのタイトル「Sailing to the Sunshine」に対する理解がいかに不十分だったかということも。
このタイトルが1期OSTからとって来られたものであるということはもちろんわかっていました。
特定の曲やエピソードというよりもこれまでの軌跡の全体を振り返るという意図が込められているのかな、とか、そのジャケットイラストからして「MIRAI TICKET」は絶対にやるだろうな、などと考えていたりはしました。
でもまさかこのタイトルが、劇伴をフィーチャーしたライブというどストレートな意味を持っているだなんて思いもしません。ましてや作曲者自らが指揮棒を振るなんて思いもしません。
Aqoursのキャストがパフォーマンスをするのがラブライブ!サンシャイン!!のライブなんだという固定観念を持っていた自分に、そんなことは予想できませんでした。
そうして今回各幕間を彩ったのは、浦の星交響楽団の生演奏でした。
アニメには、目に見えない〈空気〉というものがあります。それを作る役目を果たすのが劇伴です。
しかしそれがアニメを観る私たちの意識の中心にくることは普段ありません。それはBGMとして、〈バックグラウンド〉で、私たちの気分に働きかけてくるのです。
これまでのライブでも幕間等で劇伴は流されていました。しかしそれはやはりあくまで繋ぎとして、背景としての機能を持たされていたにすぎません。私たち観客の意識の中心は常にAqoursのパフォーマンスにあったわけです。
そんな劇伴をフィーチャーする。劇伴が作るアニメの〈空気〉をフィーチャーすると言ってもいいでしょう。
それをやってきたのが今回の4thライブでした。
聴け!見よ!感じろ!これこそがっ、俺の創造するラブライブ!サンシャイン‼の〈空気〉だっ!(私の脳内に響いた加藤達也さんの声)
浦の星交響楽団が生で演奏をすることによって、これまで絶えず私たちの意識の背景にのみあったものが、意識の中心へと上ってきます。
つまり、その演奏は、背景的なものをそれ単体で味わうという体験を、私たちにもたらします。
そしてこのような体験は、普通のアーティストのライブではなく、ラブライブ!サンシャイン‼というアニメ作品をベースにしたライブだからこそ得られる体験なのだと思います。
キャストがパフォーマンスをするということを超えて、アニメ作品をベースにしたライブであることをどこまで活かせるか。浦の星交響楽団と加藤達也さんによる演奏は、その限界への挑戦だったのではないでしょうか。
その演奏は、「未熟DREAMER」後の「起こそうキセキを!」と、Aqoursの歌とともに奏でられた「キセキヒカル」でクライマックスを迎えました。でもこの話はもう少し後、Aqours Shipを話題にする時に詳しく掘り下げたいと思います。
2.「想いよひとつになれ」
次に、9人でのダンスと歌唱が披露された「想いよひとつになれ」の話をしましょう。
(これに関するキャストの心情みたいなところには深くは触れません。逢田さん達の言葉から各自で全力で読み取りましょう。ここに書くのは演出に関する軽い考察です)
「想いよひとつになれ」。
この曲は複雑な立ち位置にある曲です。
劇中ではピアノコンクールに出場する梨子を抜いた8人だけで歌われました。
Aqours1stライブでは、逢田さんが実際にピアノ伴奏を行うことで9人でのパフォーマンスが実現したのですが、1stライブ2日目にアクシデントがありました。
あれは、逢田さんを応援しようと会場の想いがひとつになったかけがえのない瞬間であったとともに、Aqoursにとっての苦い記憶でもあります。
1stライブを経て、そんなポジとネガの二面を抱えてしまった曲が「想いよひとつになれ」でした。
この曲を再びライブでやるための選択肢は2つだと私は考えていました。
1つ目は、逢田さんが1stライブと同じようにピアノ伴奏をすること。
2つ目は、逢田さんを加えた9人でのダンスパフォーマンスをすること。
ラブライブ!のライブの最大のウリは——Aqoursがテレビに出演する際に必ず言われるように——、3次元が2次元に“シンクロ”することです。しかしその“シンクロ”の実現のために、キャストの負担が異様に大きくなってしまうケースがあります。1stライブでの「想いよひとつになれ」はその一事例でした。
このことを念頭に置くと、上記の2つの選択肢はそれぞれメリットとデメリットがあることが分かります。
1つ目の選択肢には、“シンクロ”が完全に実現できるというメリットと、キャストの負担が大きくなるというデメリットがあります。
2つ目の選択肢には、キャストの負担が和らぐというメリットと、“シンクロ”の実現が不完全になるというデメリットがあります。
つまり、いずれを採るにしても何かが犠牲になってしまう。そのため、再びライブでやるにしても、不満のない形でやることは不可能なのではないかと私は考えていました。
しかし、4thライブでの演出は、その2者択一にとらわれない見事なものでした。
9人で踊る「想いよひとつになれ」。
それは、不完全な“シンクロ”などでは決してない、“シンクロ”の新たな形だったと言えるように思います。
ラブライブ!における従来の“シンクロ”は、アニメ劇中の〈絵〉をキャストが3次元上に再現するということを目指していました。
しかし、4thライブでの「想いよひとつになれ」の“シンクロ”パフォーマンスが表現したのは、アニメ劇中における〈絵〉——8人が予備予選で踊ると同時に梨子がコンクールでピアノを弾いているという〈絵〉——ではなく、アニメ劇中で彼女らの内面にあった〈想い〉——予備予選とコンクールという違う場所にいてもAqoursとしてひとつになっている9人の〈想い〉——でした。
逢田さんがピアノの前に登場し、「想いよひとつになれ」のイントロとともにピアノを弾き始める。
そこまでは1stライブ通り〈絵〉の再現でした。
しかしそのパフォーマンスは、逢田さんが立ち上がった瞬間に〈絵〉の再現を放棄します。
そこから逢田さんを含めた9人が集結し、円陣を組み、シュシュを着けた手を空にかざす——こうして、そのパフォーマンスは、劇中の〈絵〉のいわば奥へと、すなわち梨子たちの内面の〈想い〉へと入りこんでいくことになります。
違う場所にいても梨子の〈想い〉は8人とともにあった。
9人で踊る「想いよひとつになれ」は、〈絵〉を再現する代わりに、梨子たちのそんな内面世界を東京ドームの空間上に鮮やかに現出させました。
雑誌での諏訪さんの言葉が思い出されます。
最近はTV番組で歌う機会も増えましたが、シンクロという言葉で紹介されると、“動きが同じ”という意味に捉えられることが多いのかなって思います。でも私が大切にしている一体感は、それだけじゃないと思っていて。たとえば「HAPPY PARTY TRAIN」の場合、PVはレコーディングが終わったあとに完成したので、歌詞に寄り添った果南の気持ちを想像して歌っていました。大切な出会いと別れ——。果南は高校3年生なので、卒業のイメージを抱いたりしながら。PVが完成したあとは、ライブの時にアニメーションの果南と私を重ねて観てもらえるようにダンスも猛練習しました。けれど、やっぱり“気持ち”なのかな。果南との心の一体感こそ、大事なシンクロなんじゃないかなって感じています。
(諏訪ななか、電撃G's magagine2018年11月号増刊、p45)
この諏訪さんの言う「心の一体感」は演出云々の話というより諏訪さん本人の心構えの話なのだとは思いますが、今回のライブでの「想いよひとつになれ」の演出は、この「心の一体感」としての“シンクロ”、つまり、2次元世界のキャラの内面という目に見えないものを3次元世界上に表現するという意味での“シンクロ”を実現したものだと言えます。
逢田さんの負担を軽減すると同時に、“シンクロ”を不完全にするどころか〈絵〉の再現を超えたより深い表現へとパフォーマンスを昇華させる。
それが4thライブの「想いよひとつになれ」だったのだと思います。
3.Aqours Ship
Aqours Shipもまた、〈絵〉の再現という意味での“シンクロ”をあえて捨てた演出として理解することができます。
巨大な舞台装置を使った壮大な演出という意味では、μ’sファイナルライブの「僕たちはひとつの光」で使用されたあの花弁を踏襲したのがAqours Shipに他なりません。そう考えると、東京ドームで行われるAqours4thライブでそのような舞台装置が登場するのは当然ではあります。
しかし、それら2つの演出が持つ意味は大きく違っています。
μ’sファイナルライブの花弁は、劇場版ラストシーンの〈絵〉を再現するためのものでした。
しかしAqours Shipは、劇中の〈絵〉の再現を目的としたものでは決してありません。あんなものは劇中に登場していないのです。
ではAqours Shipの演出にはどのような意味が込められていたのでしょうか。
無数のペンライトが灯されたライブ会場の観客席の光景は、ラブライブ!サンシャイン‼においてしばしば“光の海”と比喩的に呼ばれて来ました。
特に、Aqoursがアキバドームで「WATER BLUE NEW WORLD」を披露する2期12話のサブタイトルが、まさしく「光の海」というものでした。
そして、この〈海〉というメタファーは、一期OSTのタイトルであるとともに4thライブのタイトルでもある「Sailing to the Sunshine」の〈航海〉というモチーフや、 一期OSTのジャケットイラストに衣装が使われている「MIRAI TICKET」の「船が往くよ」という歌詞と高い親和性を持っています。
そこから、〈海〉の中を〈船〉が往くという比喩的なイメージを、東京ドームの“光の海”の上で具現化してやろうという発想で行われたのが、Aqours Shipの演出だったのだろうと推測できます。
船とは、キャラ9人およびキャスト9人にとっての居場所であったAqoursそのもののメタファーなのでしょう。
また、その船が“光の海”の中で行う航海は 、Aqoursが歩んできたこれまでの軌跡に対するメタファーなのだと思います。
この演出は一日目に「MIRAI TICKET」と「キセキヒカル」に、2日目には「WATER BLUE NEW WORLD」と「キセキヒカル」に使われました。
3曲を軽く振り返ったうえで、このAqours Shipという演出全体がメタファーとして持っている効果を、アニメとの”シンクロ”との関係から考えたいと思います。
「MIRAI TICKET」に関して
上述したように「MIRAI TICKET」の歌詞には「船が往くよ」というフレーズがあります。
それに、この曲は1stライブ、2ndライブツアーと続けてアニメを踏襲した円形ステージ上ですでに披露されています。それゆえ4thライブでそこから大きく演出を変えてくるのも納得ができます。
そのため、Aqours Shipの上で歌うというのは、文句なくふさわしい「MIRAI TICKET」の使いどころであると感じました。
そしてそこから続けて浦の星交響楽団の生伴奏で歌われる「キセキヒカル」。
(a)浦の星交響楽団 ・ (b)“海”を進むAqours Ship ・ (c)その上でMIRAI TICKET衣装に身を包んで歌うAqoursという3つの要素が、
1期OSTにおける、(a')中身(劇伴)・ (b')タイトル ・ (c')ジャケットイラストという3つの要素に対応しています。
この対応が非常に綺麗で、4thライブのクライマックスに相応しい演出だと思いました。もちろん、観ている最中は「まじかよ…やべえよ…」とあほみたいに衝撃を受けていただけなのですが。
「WATER BLUE NEW WORLD」に関して
2日目、Aqours Shipの登場とともに「WATER BLUE NEW WORLD」が歌われはじめた時、私は1日目以上に衝撃を受けました。
というのも、ここでこの曲が使われるのが予想外だったからです。
「WATER BLUE NEW WORLD」は、2期12話においてアキバドームでAqoursが披露した曲です。
μ’sファイナルライブの前例を考えると、アキバドームのモデルとなった場所でキャストが実際にライブを行う今回、「WATER BLUE NEW WORLD」が披露されないわけはない。
しかも、(3rdライブツアーで1度やったとはいえ)アニメ劇中に限りなく近づけた演出で披露されるに違いない。
私は4thライブが始まる前、そう確信していました。
そしてドームシティのいたるところに立てられたノボリやパンフレットの中でのAqoursの衣装が、その確信を裏付けてくれるように思いました。
しかし1日目、「WATER BLUE NEW WORLD」は披露されることなく、ライブは終わりました。
私は困惑を覚えました。
2日目に披露される可能性を考えてみても、1日目のセトリから差し替えたり追加したりするふさわしい場所があるようには思えませんでした。
ましてや、あれほどまとまりが良かった「MIRAI TICKET」の枠を差し替えてくるとは全く予想ができませんでした。
なお「WATER BLUE NEW WORLD」の衣装は2期OSTのジャケットイラストに使われています。
「Sailing to the Sunshine」と銘打たれた4thライブが「OSTをフィーチャーする」ライブであるのならば、2日目には2期OSTのジャケットイラストにセトリを合わせたのだということで十分納得がいきます。後から考えれば。
東京ドームで披露される「WATER BLUE NEW WORLD」はアニメと“シンクロ”させてくるだろうという固定観念にとらわれていた私は、1日目終了時点でその可能性に思い当たらなかったのでした。
そのため、実際に披露された「WATER BLUE NEW WORLD」のパフォーマンスは、その固定観念を覆してくるものとなりました。
Aqours Shipという舞台装置の上で歌われる「WATER BLUE NEW WORLD」は、アニメの〈絵〉の再現などではなかったわけです。
しかしこの演出は決してアニメを無視するものなのではなく、アニメの〈絵〉の再現とはまた違ったある豊かな仕方でアニメの物語を表現しようとするものだったのだと思います。
「キセキヒカル」の話をした後に、この話にまた触れましょう。
「キセキヒカル」に関して
「キセキヒカル」の演出は、浦の星交響楽団の生演奏とともにキャストがAqour Shipの上で歌うという最高に豪華なものでした。
幕間を彩ってきた浦の星交響楽団の演奏のトリを飾る曲であったことも考えれば、「キセキヒカル」こそ4thライブにおいて最も重要な位置を与えられた曲だったと言えるのではないかと思います。
確認ですが、「キセキヒカル」という曲には、大きく2つの仕掛けが施されています。
1つ目の仕掛けは、曲名における「キセキ」という語がダブルミーニングになっているということです。
すなわち、わざわざカタカナで表記されたこの曲名は、〈奇跡光る〉という意味であると同時に〈軌跡光る〉という意味でもあります。
このダブルミーニングは、結果(奇跡)を求めてあがいてきた過程(軌跡)の全てが輝き(奇跡)だったんだという、2期13話のラストシーンで千歌が得た気付きを踏まえたものです。
2つ目の仕掛けは、この曲を聴けばすぐにわかるように、この曲が、2期の実質的なメインテーマとなっている劇伴「起こそうキセキを!」のメロディに歌詞をつけたものだということです。
ところで私は「起こそうキセキを!」と「キセキヒカル」との関係性を次のように理解しています。
「起こそうキセキを!」という劇伴(およびそのバリエーション)は、千歌たちが奇跡を起こそうとあがきながら走っている背景で、繰り返し繰り返し流れてきていたメロディです。
しかしそれは千歌たち自身の耳には聴こえていませんでした。
劇伴というものの性質からして、それが登場人物に聴こえないのは当たり前のことです。
でも、「キセキヒカル」というAqoursの楽曲の登場によって、劇伴のこの性質がそれ自体、あるメタファーのように機能することになります。
「起こそうキセキを!」のメロディを使ってAqoursが歌う。
それはつまり、千歌たちには聴こえないはずのメロディをなぜかいま彼女らが知っているということです。
これは普通に考えれば奇妙な事態です。
ではなぜ知っているのでしょうか?それはまさしく、このメロディが彼女ら自身の耳に聴こえるようになったからに他なりません。
2期において(もちろん1期においてもですが)、奇跡を求めてあがいている軌跡がそれ自体輝き(奇跡)だということに、その時々の千歌たち自身は気がつきませんでした。
その軌跡の末にたどり着いた場所で、彼女らは自分たちの軌跡の輝きにはじめて気がついたのでした。
「起こそうキセキを!」が「キセキヒカル」としてAqoursの楽曲に取り入れられたということは、このことに対するメタファーなのです。
彼女らの耳にやっと聴こえるようになった、いつも流れていたあのメロディ——すなわち、彼女らがやっと気付いた、自分たちの軌跡の放つ輝き——そのメロディに彼女らが与えた名前が「キセキヒカル」なのだろうと私は考えます。
2曲の関係性に関する私の理解は以上のようなものです。
Aqours Shipが登場する直前の幕間で浦の星交響楽団によって演奏されていたのは、まさしく、「起こそうキセキを!」でした。
言うなれば、4thライブのセトリは、「起こそうキセキを!」がAqours Shipの航海を経て「キセキヒカル」へと変化したかのような、そんな順番になっていたわけです。
そう感じたのは偶然ではないでしょう。
2曲の関係性を上述したように理解することが許されるとすれば、この曲順での「キセキヒカル」には、単にライブを盛り上げるというのにとどまらない意図があったのだと思います。
※ここに書いた「起こそうキセキを!」と「キセキヒカル」との関係性の話は4thライブの数日後の自分のツイートがもとになっています。
奇跡を起こそうとあがく千歌達の物語の背景で繰り返し流れ続けながらも、千歌達自身には聴こえなかったメロディが「起こそうキセキを!」。
その物語(軌跡)の末にたどり着いた場所で、そのメロディは「キセキヒカル」という名のメロディとして、千歌達の耳に聴こえるようになる……。
そしてこのツイートは、ソウさんという方のブログの以下の2つの記事にインスピレーションをもらっています。読んだことのない方はぜひ読んでみてください。
Aqours Shipの演出全体に関して
ここから改めて、一連のAqours Shipの演出が持つ意味を全体として考えていきます。
Aqours Shipの演出は、幕間で「起こそうキセキを!」が奏でられた時から始まっていたと言ってもいいでしょう。
Aqours Shipの演出を、浦の星交響楽団の「起こそうキセキを!」→“光の海”を往く船の上での「MIRAI TICKET」/「WATER BLUE NEW WORLD」→浦の星交響楽団の伴奏とともに歌われる「キセキヒカル」という流れのセットとして考えることで、Aqours Shipの演出が全体として持つ意味がよりはっきりしてきます。
すでに述べた通り、“光の海”を往くAqour Shipは、これまでの軌跡を歩んできたAqoursそのもののメタファーです。
1期全13話をかけて描かれたAqoursのプロローグ(始まりの物語)を締めくくる曲、「MIRAI TICKET」。
2期においてAqoursの物語が到達した頂点に位置する曲、「WATER BLUE NEW WORLD」。
Aqours Shipが‟光の海”を航海する中で歌われたこの2曲には、まさにAqoursの軌跡を象徴する役割が与えられています。
そして、Aqours Shipが辿り着いた場所で、浦の星交響楽団が先に奏でた「起こそうキセキを!」が「キセキヒカル」に変わります。
つまり、劇中であがき続けるAqoursの背景で密かに流れていたあのメロディを、船が辿り着いた場所でAqours自身が、浦の星交響楽団の奏でる音楽とともに歌うのです。
Aqours Shipが辿り着いた場所、それを〈いま〉と呼んでもいいかもしれません。
これまでの軌跡を経てたどり着いた〈いま〉において、Aqoursは輝きに気付いた。
一連のAqours Shipの演出は、このような物語を、壮大な舞台装置——Aqours Shipと5万人の“光の海”、そして浦の星交響楽団——を用いた〈メタファー〉という仕方で表現したものに他ならないのではないでしょうか。
「WATER BLUE NEW WORLD」について述べた際に、アニメの〈絵〉を再現しなかったということはアニメを無視したということではないと言いました。
私がそのように言ったのは、一連のAqours Shipの演出に組み込まれたWATER BLUE NEW WORLDに、アニメの物語を表現するための明確な役割が与えられていたと考えるからです。
それは、Aqoursのこれまでの軌跡を象徴する曲としての役割です。
1stライブや3rdライブツアーですでに〈絵〉の再現という意味でのアニメとの“シンクロ”は1度やっている。
そんな状況の中で、4thライブでのパフォーマンスにどのような意義を持たせていくか。今回4thライブの構成を考えるにあたって、そんな問題があったに違いありません。
もう1度〈絵〉の再現をするのか、それともしないのか。〈絵〉の再現を繰り返すだけで、4thライブを〈無くてはならなかったライブ〉にすることはできるのか。でも〈絵〉の再現をしなかったらこれまでのライブに劣ったものになってしまうのではないか。
「想いよひとつになれ」のところでも似たようなことを書きましたが、Aqoursやライブの制作陣の方々の心の中には、このような葛藤が確実にあったと思います。
その葛藤の末に出された結論こそ、一連のAqours Shipの演出です。
これは〈絵〉の再現という意味での“シンクロ”ではありません。
しかし、それはまがいもなく“シンクロ”です。
ではそれはいったいどのような“シンクロ”だったのでしょうか。
わかった、私が探していた輝き、私たちの輝き。あがいてあがいてあがきまくって、やっとわかった。最初からあったんだ、初めて見たあの時から、何もかも、一歩一歩、私たちが過ごした時間のすべてが、それが輝きだったんだ!探していた私たちの、輝きだったんだ!
(ラブライブ!サンシャイン‼テレビアニメ2期13話)
東京ドームの空間を、千歌のこのセリフと“シンクロ”させる。
それこそ、Aqours Shipの演出が目指したことなのではないでしょうか。
つまり、〈絵〉を再現するのではなく、舞台装置を用いたメタファーによって、〈セリフで語られる内容そのもの〉を(非言語的な仕方で)あの空間に立ち現れさせる。
そんな全く新たな形の“シンクロ”が、私たちを驚愕させたあのAqours Shipの演出だったのです。(3rdライブツアーで再現されなかったこのセリフが今回の「WONDERFUL STORIES」のパフォーマンス中に再現されたということにも、意味があるのかもしれません…)
総括
ここまで、3つのポイントに絞って4thライブを振り返ってきました。すなわち、
- 浦の星交響楽団と加藤達也さんによる演奏は、常に私たちの意識の背景にあって意識の中心にはなかった、劇伴とそれが作るアニメの〈空気〉をそれ自体で味わうという体験を私たちにもたらしました。
- 「想いよひとつになれ」は、梨子がピアノコンクールに出場し8人で予備予選に臨んだという〈絵〉を再現する代わりに、違う場所にいても梨子の想いは8人とともにあったという、彼女らの内面世界を東京ドームに現出させました。
- Aqours Shipは、アニメの〈絵〉を再現する代わりに、千歌たちのこれまでの軌跡と辿り着いた先で得た気付きを、Aqours Shipと5万人の“光の海”と浦の星交響楽団という壮大な舞台装置を用いて、メタファーという仕方で表現しました。
これらはいずれも、ラブライブ!シリーズのこれまでのライブがウリとしてきた、〈絵〉の再現としての“シンクロ”という枠を大きく超え出る演出です。
冒頭で述べた通り、私は4thライブの内容を、これまでのAqours楽曲のベストセレクションのようなものになるのかな、程度に考えていました。
その予想には、キャスト9人が歌うのがライブなんだ、とか、“シンクロ”とは〈絵〉の再現なんだ、というような前提が含まれていました。
それは実際、μ’sの時代から引き続きライブで前提とされてきたことでもありました。
Aqours4thライブはそんな前提を見事に破壊したわけです。
とはいえ、衣装が再現されていなかった楽曲を衣装付きで披露するなど、〈絵〉の再現として押さえるべきところは押さえてきていました。
だから今回のライブは私たちの期待に応えながらも、それを予想もできない仕方で上回っていくような、刺激に満ちた最高のライブとなりました。
キャストが〈絵〉を再現するという、μ’sが培いAqoursが引き継いだラブライブ!シリーズのライブの魅力。
それは間違いなく、ライブに行くことで私たちが体験する楽しさの中核をなしています。
しかし、それを長い間やっていくことによって、その魅力は、他方では、それを提供しなければならないという〈しがらみ〉ともなっていきます。
魅力を損なわないようにしながらも、その〈しがらみ〉を乗り越え「もっと先へ飛び出す」——。Aqours4thライブは、ラブライブ!サンシャイン‼というコンテンツの持つ底力を徹底的に引き出そうとする挑戦が詰め込まれたライブだったのです。
消えないでって呟きながら もっと先へ飛び出すんだ
(Thank you, FRIENDS!!)
なお、本記事では演出に関する考察が話の中心になり、Aqoursのキャストさんたち自身に関して細かい話をしてきませんでしたが、今回のような挑戦的な演出を東京ドームという巨大な舞台でこなすことができたのは、彼女らが培ってきた力量があってこそです。
Aqoursは大きく盤石な存在になりました。
開幕から「君のこころは輝いてるかい」や「恋するAQUARIUM」、「HAPPY PARTY TRAIN」、「青空Jumping Heart」などこれまでのライブでも繰り返し披露されてきた定番曲を惜しげもなく使った揺るぎないパフォーマンス。
それは、μ’sファイナルライブのあとたくさんの経験を積んで成長した彼女らの姿を、私たちに突きつけてくるようでした。
そんな今の彼女らだからこそ、さまざまな挑戦的な演出を通して、最高の〈いま〉を作り出すことができたのでしょう。
本記事の冒頭の話に戻りましょう。
東京ドームは、2年半前にAqoursのキャスト9人がμ’sの輝きを目に焼き付けた、Aqoursの〈始まり〉の場所。
その東京ドームは、Aqours4thライブを経て、Aqoursの新たな〈始まり〉の場所という意味を持つことになる。そんな考えをもともと私は持っていました。
しかし、その新たな〈始まり〉がいったいどういうものなのかは具体的にはわかっていませんでした。
では今回のライブは具体的にどのような〈始まり〉を、私たちに見せてくれたのでしょうか。
ここまでの考察で確認したのは、Aqours4thライブの演出が、〈絵〉の再現としての“シンクロ”という枠を大きく超えていくものだったということです。
これを次のように言いかえることができるのではないかと私は思っています。
すなわち、Aqoursは、μ’sから引き継いだ“シンクロ”のありかたとは異なった、Aqoursだけの(あるいはラブライブ!サンシャイン‼だけの)“シンクロ”のあり方を手に入れた。
アニメ1期12話で千歌たちがμ’sを追いかけることをやめたように、
あるいは2期7話で宙を舞う羽根が青く変化したように、
伊波さんたちも、Aqoursだけの道を歩き始めたのです。地図の無い‟予測不可能”な航海へと、この4thライブで出発したのです。
これが、4thライブがAqoursにとって〈始まり〉だということの意味です。
μ’sみたいに輝くってことは、μ’sの背中を追いかけることじゃない。自由に走るってことなんじゃないかな!全身全霊、なんにもとらわれずに、自分たちの気持ちにしたがって!
(ラブライブ!サンシャイン‼テレビアニメ1期12話)
その航海を見届けること、あるいは一緒に航海すること、今の私はそれが楽しみで仕方ありません。
おわりに
「Thank you, FRIENDS!!」の歌詞にある、心を波立たせ航海へと誘う「海風」。
‟海”から吹く風。
生まれてくるトキメキの数は
ああ数えきれない!
海風に誘われて
心には 波が立って立って
次は どこへ どこへ
向かえばいいの?
(Thank you, FRIENDS!!)
この歌詞をなぞるかのように、奇しくも4thライブ2日目のあの日、東京ドームにはまさしく“海風”が吹きました。
それは、アンコール後に‟光の海”から吹いたAqoursコール。
私たち観客の想いがあふれ出してひとつになったAqoursコールです。
このAqoursコールに関して、後日逢田さんは次のような言葉をインスタグラムに書いています。
Aqoursコールが聞こえて来た時は、初めて今までの頑張りが報われたのかなと感じました。
沢山名前を呼んでくれて本当に本当にありがとう。あそこでやっとAqoursとしての“自信”というものをちょっとだけ持てた気がします。
(https://www.instagram.com/p/Bq1rAk2nDWT/?utm_source=ig_twitter_share&igshid=1gn9icmhipznl)
また、高槻さんは「Aqoursが求められてる」という実感を持ったと言い、今までやってきて「そこが一番の不安だった」と言っています(School of Lock!, 2018年12月3日放送分)。
「Aqoursとしての‟自信”」という逢田さんの表現の背景にあるのは、決して色あせない輝きを放つμ’sの存在です。
すでに巨大化していたラブライブ!の看板をμ’sから引き継ぎ、コンテンツの大きさが先行する中で、彼女らは自分たちのパフォーマンスをそれに必死で追いつかせなければなりませんでした。
その中で、ある不安が彼女らにつきまとっていたようです。おそらくそれは、自分たちはμ’sの光を借りて輝いているだけなのではないかという不安です。
私たちファンのほぼ全員がAqoursをAqoursとして応援するようになっていても、彼女らの中でその不安がどうしようもなく湧き上がってくることがあったのでしょう。
だからこそ、あの日5万人分の想いが乗ったAqoursコールが届いて、自分たちがμ’sの代替物としてではなくAqoursとして求められているんだという実感と自信がやっと湧いた——こんな気持ちが、逢田さんや高槻さんの言葉には込められています。
いわば、東京ドームに“海風”が吹いたあの瞬間は、彼女らが自分たちの輝きを自分たち自身の輝きとして認めることができた瞬間だったのかもしれません。
きっとその「Aqoursとしての“自信”」が “ミライチケット” となり、Aqoursという船を新しい“予測不可能”な航海へと向かわせることでしょう。
もう追いつこうとする必要はない。いまやここからAqoursはどこへだって行けるのです。
それとともに、“光の海”の中で一緒に叫んだあのAqoursコールは私自身にとっても、航海へ誘う“海風”でした。
Aqoursと一緒に、そしてたくさんの“10人目”と一緒に、こんなにも最高の〈いま〉を作れている。
そんな実感で私の心は満たされ、同時に、これからもこんな最高の〈いま〉を一緒に作れる気がしました。
だから4thライブを終えて私が抱いた気持ちは、名残惜しさよりも、「やっぱりどうなるかわからない明日の方がちょっぴり楽しみ」だという気持ちでした。
「いまが最高!」だからこそ、「明日の方がちょっぴり楽しみ」なのです。
明日やってくる〈いま〉を信じられるのです。
千歌:楽しい時間というのは、いつもあっという間で
果南:そこにいる誰もが、この時間がずっと続けばいいのにって思ってるのに
曜:でも、やっぱり終わりは来て
ダイヤ:時が戻らないこと、もう一度同じ時間を繰り返せないことが、とても寂しく思えるけど
ルビィ:同時に、やっぱりどうなるかわからない明日の方がちょっぴり楽しみでもあって
花丸:ああ、これが時が進んでくってことなんだなって、実感できるずら
(ラブライブ!サンシャイン‼テレビアニメ2期11話)
東京ドームで行われたAqours4thライブが、どのような意味でAqoursの新たな〈始まり〉だったのか。それは、Aqoursがμ’sの軌道をなぞるのではなく、Aqoursだけの軌道、誰も見たことのない夢の軌道を、明確かつ自覚的に進み始めたという意味での〈始まり〉だったのだと私は思います。
本記事は、そのことを特に今回のライブの演出という側面から示すという作業を行いました。長くなりましたが、お読みいただきありがとうございます。
P.S.
そんな新たな〈始まり〉としての最高の〈いま〉を東京ドームで共有できたことを、私は心から幸せに思います。