MOMENT ICHIKING

ラブライブデイズ、指にキラリ。

セカイ系的な生き方を選ぶということ――『天気の子』はセカイ系なのか?——

  

 

これは――僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語だ。

(『天気の子』冒頭の帆高のモノローグより)

 

1. はじめに

※本記事はネタバレに配慮しないのでまだ見てない人は読まないでください。

こんにちは。

新海誠監督の最新作『天気の子』が公開されたので、早速2回くらい観に行ってきた。思ったより好きになったのでおそらくまだ何回も観に行くだろうが、とりあえず1回ここにその考察というか批評的なサムシングを書いておきたいと思う。 

 

『天気の子』を鑑賞したとき、なんか批評っぽいものに興味がある人の頭には必ず次のような問いが浮かぶことだろう。それは「『天気の子』はセカイ系なのかどうか」という問いだ。私の頭にも浮かんだ。

 

この記事は、まだ公開されたばかりの『天気の子』という作品について理解を深めていくための足場として、この問いにちゃんと答えを与えておこうじゃないかという記事である。

 

 

なお先に言っておけば、私は、セカイ系という枠組みへと類型化してこの作品を理解しようとするべきではないと考えている。

この作品は、表面上はセカイ系のような見た目をしつつも、ある仕方でセカイ系を乗り越えているように思われるからだ。それをここから論じていきたい。

 

2. セカイ系とは

まず前提として、「セカイ系」とは何かを確認したい。「セカイ系」とは2000年代以降アニメ作品などを批評する際に用いられてきたカテゴリーのひとつであり、次のような特徴を備えたもののことである。

「物語の主人公(ぼく)と、かれが思いを寄せるヒロイン(きみ)の二者関係を中心とした小さな日常性(きみとぼく)の問題と、「世界の危機」「この世の終わり」といった抽象的で非日常的な大問題とが、いっさいの具体的(社会的)な説明描写(中間項)を挟むことなく素朴に直結している作品群」

『君の名は。』の大ヒットはなぜ“事件”なのか? セカイ系と美少女ゲームの文脈から読み解く|Real Sound|リアルサウンド 映画部

新海誠の『ほしのこえ』(2002)はセカイ系に属する作品の代表として必ず挙げられるもののひとつだが、新海の他の作品もまたセカイ系的な性格を色濃く持っている。

 

新海はいつも、主人公の男女二人——「きみとぼく」——の情緒を、これでもかというくらいの美しい風景と音楽、言葉を通して描写する。しかしそこに、二人が属するはずの社会は、あるいは二人を取り巻く人間たちは、単なる背景(いわばNPC)以上のものとしては登場しない。新海作品において、背景から浮かび上がって意味を持っている存在は「きみとぼく」二人だけである。まるで世界に本当に存在しているのは「きみとぼく」だけであるかのようにして、二人の関係性が描かれる。

 

セカイ系として典型的なのは、『ほしのこえ』、『雲の向こう、約束の場所』(2004)、『君の名は。』(2016)である。これらにおいては、世界そのものの命運にかかわる大きな問題が、「きみとぼく」の関係性と直結した問題として登場する。

秒速5センチメートル』(2007)や『言の葉の庭』(2013)は、世界の命運にかかわる大きな問題が登場しないという意味で上のようなセカイ系の定義からは外れるが、その場合も「きみとぼく」が属するはずの社会が単なる背景以上のものとして描かれることはない。

 

なお『秒速』や『言の葉』も、もしセカイ系の本質が次のような点にあるのだとするなら、セカイ系の性質を共有していることになる。すなわち、社会的なディテール描写が欠如しているせいで世界が「セカイ」という漠然としたイメージ以上のものとなることがないという点。そのために「きみとぼくの世界」がまるでセカイそのものであるかのように描かれるという点。

まるで、世界の秘密そのものみたいに、彼女は見える。

(『言の葉の庭』孝雄のモノローグより) 

「きみとぼくの世界」が本当のセカイであり、「きみ」のいない世界は間違った世界である。そんな根本気分が新海作品には通底している。世界の命運をゆるがす出来事が実際に登場しようとしまいと、新海作品において、「きみとぼく」はセカイに直結している。

このような広い意味で、新海誠は、セカイ系的な作品を多く作ってきた作家だった。

 

 

3. 『天気の子』はセカイ系なのか――セカイ系への回帰?

では最新作『天気の子』はどうだろうか。

 

少なくとも一見した限りでは、『天気の子』がセカイ系であることは疑いえないように思える。

僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語

あの夏の日、あの空の上で僕たちは、世界の形を、変えてしまったんだ

(『天気の子』冒頭の帆高のモノローグより)

予告で印象的なこのモノローグからして、今作はセカイ系であることを一切隠す気がないように見える。というよりもむしろ露骨に前面に出そうとしていると言ったほうがいいかもしれない。

YouTube東宝MOVIEチャンネルに上がっている「『天気の子』スペシャル予報」映画『天気の子』スペシャル予報 - YouTubeでは、これまでの新海作品の「セカイ」というワードが登場するモノローグがつなぎ合わされ、ひとつのモノローグへと編纂されている。この動画を見ると、今作では意図的にセカイ系っぽさが前面に出されていると感ぜられる。

www.youtube.com

 

そしてその内容は、帆高(ぼく)が陽菜(きみ)と青空(世界の命運)とを天秤にかけ、陽菜を選ぶというものだった。陽菜のいる狂った世界で生きるのか、陽菜を失い調和を取り戻した世界で生きるのか、そんな二者択一——これをセカイ系と言わずしてなんと言おうか?

 

君の名は。』の時も初期のセカイ系に回帰したということが言われていた*1が、このような観点から言えば、『天気の子』はそれ以上にはっきりした原点回帰である。『天気の子』は、風景にパラメーターを全振りしていた初期作品に比べ、キャラクターの造形も表情も性格も活き活きと明るくなり、ジブリ細田守のようなファミリー向けアニメ映画のような見た目を獲得している。だがこのような見た目の奥では、新海作品を特徴づけてきたセカイ系的世界観が暴れまくっているのだ。

さしあたりはこのように捉えることができよう。さしあたりは。

 

 

4. 『天気の子』はセカイ系なのか――セカイ系からの脱出?

ところでセカイ系という語は、中立的に作品をカテゴライズするための言葉ではなく、そのような特徴を持った作品を揶揄する目的で使われ出したネガティブな語である*2。すなわち、社会性を欠いた、自意識が過剰な、自閉的な作品だということを指摘し批判するための言葉であった。その批判の裏には、人はセカイ系的な自閉性のまどろみから脱し、社会へと身をさらしていかねばならないという考え方がある。「きみとぼくの世界」は本当は世界そのものではないのだから、と。

 

では、『天気の子』はそんな自閉的なモチーフをただ繰り返しているだけの作品なのだろうか。ここからが本題である。

私はそうではないと感じた。新海は、セカイ系へと表面上は回帰しながら、むしろセカイ系を乗り越えようとしているのではないだろうか。

 

『天気の子』には、これまでの新海作品とは大きく違っている点がある。それは、「きみとぼくの世界」を外から眺める大人たちの視点、つまり「社会」の視点が物語の中に入り込んでくることで、「きみとぼく」の視点が相対化されているということである。

 

それを確認するために、本記事では、高井と須賀という二人の大人にスポットを当てておこう。

 

高井は、拳銃を所持している疑いがあることから帆高を捜索するようになり、帆高、陽菜、凪の3人の身柄を確保しようと動く刑事である。彼は帆高や陽菜、凪の思いに耳を傾けることなく、彼らを社会におけるあるべき位置へと戻そうとする。だから高井は社会の秩序を代表する存在であり、「きみとぼく」にとっての明確な「敵」である。

しかし、今までの作品における「敵」(『言の葉』の相沢先輩、『君の名は』の三葉の父など)とは異なり、高井は「きみとぼくの世界」の正しさを際立たせるための単なる踏み台として登場しているわけではないと感ぜられる。キャストの梶裕貴がパンフレットのコメントで言うように、高井は強い正義感を持ちつつもどこか青臭い刑事であり、自分の信じる正義を一生懸命遂行しようとする一人の人間として描かれているのである。

強い正義感を持ち、刑事らしいどっしりした心構えの見受けられる高井。けれど同時に、若手と中堅の狭間にある青臭さや未熟さもどこか垣間見えるような印象だったので、そのあたりも意識しつつ役作りさせていただきました。

(『天気の子』パンフレットの梶裕貴のコメントより)

高井のこの人間味が、帆高と陽菜を外から眺める「社会」の視点のリアリティを強化する。高井の目(=社会の目)から見れば、「陽菜は天気を元に戻すために消えた」という帆高の訴えも、自分を保護しようとする大人達を敵視し必死の形相で拳銃を構える帆高の姿も、精神病的な妄想に取りつかれているようにしか見えない。

帆高は狂っているのは社会の方だと言うだろう。だが、高井にしてみれば、狂っているのはどう考えても帆高の方なのである。

従来の新海作品においては、「きみとぼくの世界」こそが真実の世界だという価値観は絶対的なものだった。だが今作においては、その価値観を否定する「社会」の視点が、高井というキャラクターの存在によって具体化され、確固としたものとなっている。

 

帆高を拾った須賀圭介は、もともとは帆高と同じように家出をして東京にやってきた人間だ。そして「大恋愛」の末に結婚をするもやがて妻を亡くし、娘も妻の側の実家に引き取られ、現在はひとりでわびしく生きている。かつて彼なりの「きみとぼくの世界」の中を生きていた須賀は、今ではそれを喪失してしまっているのである。

そんな須賀は、帆高に過去の自分を重ね、支えようとする。しかし娘を引き取りたいという思いから、彼は社会の現実に屈し、帆高を支えることを放棄してしまう。今の彼はもうリアリスティックに生きることしかできなくなっている。しかしクライマックスにおいて、須賀は「帆高に触るんじゃねえ!」と叫んで高井に体当たりし、帆高を助けることを選ぶのだった。

須賀は、帆高の視点と社会の視点を橋渡しする役目を今作の中で担っている。須賀にとって、帆高の抱える思いと今の自分が生きる社会の現実とのどちらが間違っているのかを決めるのは不可能である。彼は社会の現実を受け入れて生きていくことしかできないが、かといって帆高を狂っていると断ずることも須賀にはできない。どちらもが正しい。葛藤する須賀の視点は、見ている我々にそんなことを伝える。

 

高井の視点は、「きみとぼく」の視点を否定する「社会」の視点を物語の中にもたらし、そして須賀の視点は、「きみとぼく」と「社会」のどちらが正しいかを決めることが不可能だということを教える。

このように、帆高と陽菜の周囲の大人が具体的に描かれることによって、「きみとぼく」の外側の視点が物語の中に入り込み、「きみとぼくの世界」が相対化されているのが『天気の子』である。

須賀はむしろ常識人で、世間や観客の代弁者でもあって、社会常識に則って帆高を止めようとはするけれど、最後はやっぱり味方なんだということにしたんです。帆高と真に対立する価値観があるんだとしたら、それは社会の常識や最大多数の幸福なんじゃないか。結局この物語は、帆高と社会全体が対立する話なのではないか。それに気づけたことが、今回の物語制作でのいちばんのブレイクスルーだった気がします。

(『天気の子』パンフレットの新海監督のコメントより)

したがって、新海監督自身が語るように、今作はセカイ系的なひとつの価値観を内部から描くのではなく、セカイ系的な価値観と社会常識的な価値観との対立を描いているのだとみなすことができる。その対立は、どちらが勝者であるかが決して決まらないような対立である。

このような観点からすると、『天気の子』は、セカイ系の外へ一歩出た作品だとみなす必要があるのではないか。

 

5. 『天気の子』はセカイ系なのか――セカイ系的な生き方を選ぶということ 

帆高と陽菜の関係にかかわる出来事は天気という世界の命運にかかわる出来事に直結する。その意味では、確かに『天気の子』の物語は典型的なセカイ系に見える。

しかし、「きみとぼく」の周囲の大人が具体的に描かれ、それによって「社会」の視点が作品の中に不可欠な仕方で入り込んできているという点で、『天気の子』は従来のセカイ系とは異なっている。

これが私の理解だ。

 

最後に、セカイ系の外へ出たということについてもう少し考えておこう。

『天気の子』においては、いつもセカイそのもののように描かれてきた「きみとぼくの世界」は盲目的な絶対性を失い、大人達の視点(=社会の視点)によって相対化されている。私はこれに、セカイ系の外へ出たという表現を用いた。しかし、それはセカイ系的な物語が捨てられたということでは決してない。

相対化されるということは、そこに「選択」の問題が関わってくるということを意味する。つまり、「きみとぼく」の視点から現実を捉えるか、それとも「社会」の視点から現実を捉えるかという選択だ。

「僕たちは世界の形を変えてしまった」ということ。帆高と陽菜だけが知っているそんな「世界の秘密」。だが「社会」の視点を考慮に入れるなら、それは二人の中にしか存在しない妄想と区別がつかない。この「秘密」を真実として引き受けるべきか、それとも妄想として一蹴するべきか。そこに基準は無く、それは帆高、陽菜、あるいは大人達それぞれの選択に委ねられている。

こうして『天気の子』においては、セカイ系的な二者択一ーー青空を選ぶか、それとも陽菜を選ぶかーーに先立つレベルで、そのようなセカイ系的な物語り(=現実の捉え方)*3の中で生きることそれ自体が、あくまで選択肢のひとつに過ぎないものという意味を、すなわち主体的に選びとられるものという意味を与えられるのである。

 

この選択の問題は、エピローグにおいて、帆高自身の直面する問題となる。

クライマックスシーンの後、帆高は保護観察処分になり、島に送り返されて高校生活を送ることになった。戻ったら島も学校も当たり前のようにそこにあったと帆高はモノローグの中で語るが、島で過ごした「普通」の日々はきっと、かつて彼に立ちはだかった「社会」の視点を内在化していく過程、つまり東京で陽菜と過ごした日々を「異常」として捉える視点を身につけていく過程となったのだろう。高校卒業後東京で暮らし始めた帆高は、陽菜に会いに行くことを躊躇する。「きみとぼくの世界」が「世界の秘密」につながっているということを、帆高は信じていいのかわからなくなったのである。

東京に戻った帆高が須賀に言われ、そして彼自身陽菜に会ったら言おうとしていた「誰のせいでもない」という言葉。それは、セカイ系的な物語を捨てようとする言葉だ。「きみとぼくの世界」は「世界の秘密」になどつながっていない。「きみとぼくの世界」は世界そのものにとってはちっぽけな、どうでもよいものにすぎない。そのことを受け入れようとする言葉だ。

だが、空に向かって祈る陽菜の姿を見て帆高は、その言葉を言わないことを選ぶ。セカイが変わってしまったのは「きみとぼく」のせいなのか、それとも、誰のせいでもないのか。逡巡した末に帆高が選びとったのは、陽菜と一緒にセカイ系的な物語り(=現実の捉え方)を生き抜くということなのだった。

 

あの景色、あの日見たことは全部夢だったんじゃないかと、今では思う。でも夢じゃないんだ。あの夏の日、あの空の上で僕たちは、世界の形を、変えてしまったんだ。

(『天気の子』冒頭の帆高のモノローグより)

冒頭のこのモノローグは、現在の(最後の場面の時点での)帆高がセカイ系的な物語りを生きることを自覚的に選び取ったという事実を示すものである。

 

 

「きみとぼく」の視点が絶対性を奪われ相対化されるということは、セカイ系の物語が捨てられるということではない。

その相対化はセカイ系的な物語り(=現実の捉え方)の中で生きるということを、主体的に改めて選びとられるひとつの生き方として新たに意味づけたのである。

 


ここには、これまでセカイ系的な作品を作り続けてきたことの意味に関する新海監督の自問自答が反映されているのかもしれない。

「きみとぼく」を中心とした世界に盲目的に没入してきたこれまでの作品の主人公達の姿は、たしかに見る者にどこか未熟さを感じさせうるものだったかもしれない。しかしそれはセカイ系的なロマンティシズムそのものが投げ捨てられるべきものだということを意味するだろうか。

もう大人になれよ、少年。

(『天気の子』須賀のセリフより)

 

かつてロマンチストであった須賀は帆高にこう諭す。

でもそもそも大人になるとはどういうことなのだろうか。

「きみとぼくの世界」が取るに足らないものだと受け入れることが、大人になるということなのだろうか。そうして「社会」に身を委ねて生きることが。

しかしそれもまた、ある種の未熟さ、盲目さを抱えているのではないか。

おそらく新海監督の中で執拗に繰り返されているのであろうそんな自問自答を、『天気の子』という作品は、鮮明に映し出している。

 

 

6. おわりに

この記事では、「『天気の子』はセカイ系なのかどうか」というどストレートな問いに答えを与えることを試みてきた。私が与える答えは、セカイ系に表面上は回帰しつつもセカイ系を乗り越えようとしている、という両義的なものである。

 

『天気の子』という作品は、セカイ系という新海監督の軸へと明確に回帰しつつも、決してそこに安住した作品ではない。

「社会」の視点を入れ込むことによって、セカイ系の物語を内部からただひたすらに美しく描くということの一歩先へ進み、セカイ系的な物語り(=現実の捉え方)の持つ意味を問うていく。この点において、『天気の子』における新海監督は、セカイ系を自ら乗り越えようとしているのだと言えるだろう。

 

 

さて、このように『天気の子』を解釈した場合に浮上してくる問いは、それではセカイ系的な物語りを生きるとは具体的にどういうことなのか、その意味を描くことに『天気の子』はどこまで成功しているのか、といったような問いである。

これらの問いに取り組まないかぎり、本記事の『天気の子』解釈は漠然としたものにとどまる。そしてそのためには森嶋帆高、そして天野陽菜の内面へとより接近していく必要があるだろう。

だが正直疲れたので、今回はこの辺で筆を置こうと思う。この続きは気が向いたら別の記事として書くだろうが、気が向かなかったら書かないだろう。

 

この記事を通して結局私が何を言いたかったのかというと、「セカイ系」という枠組みへと類型化して『天気の子』を理解した気になるのはやめようじゃないかということだ。

新海監督はぶれない芯を持ちつつも、どんどん自分を変化させている。ならば受け取り手である私たちも、それに合わせて新海作品に対する見方を変化させていくべきだろう。きっとそのほうが面白い。

 

ではでは。

 

*1:「『君の名は。』の物語は、近年の作品とは異なり、後述するように、明らかにかつての出世作ほしのこえ』(02年)、『雲の向こう、約束の場所』(04年)といった初期作の「セカイ系」と呼ばれる主題や世界観に再び回帰しているといえるだろう」(渡邉大輔、「彗星の流れる「風景」」、『ユリイカ』2016年9月号、90-101)

*2:Wikipedia参照セカイ系 - Wikipedia

*3:本当は「ナラティブ」って言いたいけど読者に伝わるかどうかわかんないからやめました。一応言っておくと、本記事において「物語」はstoryという語に、「物語り」という語はnarrativeという語に対応。でもそんなに気にしなくていいわよ。