MOMENT ICHIKING

ラブライブデイズ、指にキラリ。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』を観たよ

1.はじめに

こんにちは。

 

9月6日より劇場公開された『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン 外伝-永遠と自動手記人形-』を先日ようやく観に行ったので、今回はその感想というか考察というか、よくわからない何かを書いてみようと思います。

 

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この作品は、イザベラ・ヨークとテイラー・バートレットという“姉妹”を主人公にした物語です。本記事は、2人のうち特にイザベラに焦点を合わせて、次のようなことを考えてみようという記事です。

すなわち、本作の中でイザベラの内面に起こった変化とはどのような変化だったのだろうか、と。

 

というのは、妹テイラーの経験した変化のわかりやすさと比べて、姉イザベラの経験した変化は非常に内面的で、目に見えにくいものだからです。

テイラーは、ベネディクトに手紙を届けてもらったことをきっかけにして自分の夢を見つけ、孤児院を抜け出し新たな世界に飛び込みます。彼女は自分の力で人生を切り開いていきます。

それに対して、イザベラはヴァイオレットと出会った時も、ヴァイオレットと別れた時も、そしてテイラーからの手紙を受け取った時も、貴族の世界、「淑女」の世界に閉じ込められたままです。そういう意味では、最初から最後まで、イザベラの身には何の変化も起こりません。彼女がどこへも行けないという現実は、変えることができないのです。

しかし、暗く沈んだ表情のまま日々を過ごしていた彼女は、ヴァイオレットと時を過ごす中で、確かに笑顔を獲得していきます。状況は変わらなくとも、イザベラの内面は物語の中で大きく変化したのです。ではより具体的にはどのように変化したのでしょうか。

 

私はこれを、イザベラは「イザベラ・ヨーク」としての自分の人生を認められるようになったのだ、と理解しました。

もちろん、茅原実里の歌う主題歌のタイトルにもなっているように、「エイミー」という名前は本作において非常に重要です。ですが、「イザベラ」という名前がどうでもよいものなのかと言えば、決してそんなことはないでしょう。

イザベラは、ヴァイオレットとの出会いをきっかけとして、「エイミー」ではなく、今ここにいる「イザベラ」を発見していくのです。そうやって彼女が自分の意志で「イザベラ」になっていく過程を美しく描いたのが、本作の前半部分なのだろうと思います。

 

2.イザベラが「イザベラ」になっていく過程

ここからは、物語前半部を簡単に辿りながら、それがイザベラが「イザベラ」になっていく過程を描いたものであるということを確認しましょう。

 

ヴァイオレットが学園にやってきたばかりのころ、イザベラの表情は暗く、そこには一切笑顔がありませんでした。
学園で教えられる淑女としての振る舞いを拒絶し、ヴァイオレットには「君を見てると自分が惨めになる」と吐き捨て、ひとりうずくまり「テイラー…」と呟く。イザベラの気持ちは、テイラーとともに生きていたあの頃のあの場所に置き去りになっていました。彼女は、現在を生きることができていなかったのです。

 

イザベラが変化し始めるのは、喘息に苦しむ彼女をヴァイオレットが一晩中見守っていたあの夜以降のことです。ヴァイオレットを受け入れていくとともに、イザベラの顔には笑顔が宿っていきます。そしてそれと並行して、イザベラは淑女としての振る舞いを受け入れるようになっていきます。

何も無い自分、牢獄に閉じ込められた自分を痛感させるだけの存在に思えたヴァイオレットに、イザベラは自分の望む「淑女」の姿を見るようになっていったのでしょう。高貴で、それでいて自由なヴァイオレットのあり方に触れることで、空っぽだったイザベラの胸には憧れが、こころが、灯るようになったのです。

しかしながら、そんなイザベラを待ち受けるのは、自分はヴァイオレットと同じようにはなれないという現実です。ヴァイオレットに手を引かれて走りながら、イザベラはこのままどこかへ行ってしまおうかと言います。ですがそれに対するヴァイオレットの返答は残酷です。

「どこへも行けませんよ、イザベラ様」

ヴァイオレットはやがて学園の外の自由な世界へと戻っていかねばならない。自分はそれについていくことはできない。自分はヴァイオレットのようにはなれない。自分は「ここ」にいることしかできない。イザベラは最後にはそんな現実と向き合わなくてはならないのです。

 

ヴァイオレットの高貴さへの憧れ。ヴァイオレットとともにいられる喜び。そして、ヴァイオレットと同じようにはなれないという寂しさ。

イザベラとヴァイオレットが踊るワルツのシーンは、そんなイザベラのいくつもの感情が折り重なり収束していく、珠玉のシーンです。

「君が一番きれいなんだよ。ねえ、そばを離れないでね」

こう言うイザベラは、ヴァイオレットと別れなくてはならないということを既に理解しています。だからこの言葉はただの実現不可能な願望にすぎません。

ワルツを踊りながら、イザベラは天井に描かれた鳥を見つめます。彼女はきっと、ここではないどこか——エイミーとして、テイラーと一緒に行けたかもしれないどこか——へと思いを馳せたのでしょう。しかしほどなくして、彼女は目を落とし、瞼を閉じ、かすかに微笑みます。
おそらくそれは、かつて「エイミー・バートレット」だった少女が、自分が「イザベラ・ヨーク」として今ここにいるということを、受け入れた瞬間だったのでしょう。

現在を拒絶してひとりうずくまっていた一人の少女が、「イザベラ・ヨーク」として現在の中へと踏み出す姿。それを描いたのが本作の前半です。彼女は、テイラーのようにどこか別の新しい場所へと踏み出すかわりに、「今ここ」の中へと踏み出したのです。「イザベラ・ヨーク」という淑女として生きていく人生の中へと、足を踏み出したのです。

 

3.淑女の世界は牢獄なのか

もちろん、足を踏み出したといっても、そこにイザベラの選択の余地はありません。イザベラがしたのは、許された唯一の選択肢を受け入れるというただそれだけのことだったからです。では、イザベラの人生はやはり不幸で悲しいものなのでしょうか。淑女の世界はやはり牢獄でしかないのでしょうか。

 

そうなのかもしれません。でも、そうではないとも言えます。いえ、そうではないと感じることができるようになったということこそ、本作においてイザベラが経験した変化なのではないでしょうか。

 

能動的か受動的かということで言えば、イザベラの人生はもう受動的でしかありえないのかもしれません。かつてテイラーとともにたくましく生きていた頃と全く同じ喜びは、取り戻せないのかもしれません。しかし、淑女の世界にもきっと、その世界なりの仕方で、こころが煌く瞬間というものがあり、また、こころとこころが交わり合う瞬間というものがあるのです。

最終的にそれを気付かせたのは、イザベラが拒絶していた同級生アシュリー・ランカスターでした。ヴァイオレットが去り、決して出ていくことのできない学園の中にひとり戻ってきたイザベラ。アシュリーは、その背中に声をかけます。「デビュタントのワルツ、とても素敵でした」と。そして、「アシュリーと呼んでくださる?わたくし、家柄なんて関係なく、あなた自身と話がしてみたいのです」と、イザベラの瞳をまっすぐ見つめながら続けます。かつてイザベラは、アシュリー達が自分の家柄しか見ていないと考えていました。デビュタントの時も、みんなが見惚れているのはヴァイオレットであって自分ではないと考えていました。しかし実は、アシュリー達はヴァイオレットではなくイザベラを、イザベラの家柄ではなくイザベラの「こころ」をまなざしていたのです。イザベラはそのことにようやく気がつくのです。

そのとき、イザベラにとって、その世界はもはや単なる牢獄ではなくなったのでしょう。たしかに彼女はそこから出ていくことはできません。彼女は生き方を選ぶことができません。でも、だからといって、こころを殺さないといけないわけではないのです。彼女のこころは、「エイミー」としてではないけれども、「イザベラ」として、立派に息をしていくことができます。彼女のこころをまなざしてくれる人がいるから。そのことに、彼女自身が気がついたから。

こうして今や淑女の世界は、かつて「エイミー」という名前だった一人の少女の、紛れもない居場所となったのでしょう。私はそう理解しました。

 

それゆえ、テイラーのように住む世界が変わることはなくとも、イザベラもまた、ヴァイオレットとの出会いをきっかけとして、本作の物語中で大きな変化を経験したのだといえます。それは内面的な目に見えない変化です。ヴァイオレットとこころを通わせた時間は、現在を拒絶し過去へと向かっていたイザベラの意識を、現在へと引き戻したのでしょう。そうして彼女は、自身が「エイミー」ではなく「イザベラ」として今ここに生きているということを認め、受け入れていったのです。それによって、牢獄でしかなかった学園は、彼女が生きていく居場所へと意味を変えたのです。

 

4.「エイミー」としての自己を語ったことの意味

ところで、そんな変化の中で、テイラーへと手紙を書くという行為は、どのような役目を果たしたのでしょうか。そもそもなぜイザベラは、ヴァイオレットに自分の過去を、テイラーへの想いを語ろうと思ったのでしょうか。

もちろんそこには、テイラーの幸せを願う想いがあります。それがテイラーに届き、長い年月をかけて、テイラーの人生を変えていきます。

しかし、語るということ、手紙を書くということ、そこには、イザベラ自身の人生にとっての意味もまたあったはずです。

 

言葉にするという行為にはきっと、人を過去から解放するという機能があるのでしょう。大切な過去を言葉に閉じ込めることで、人はその過去の束縛から解き放たれ、現在へと、そして未来へと歩みを進めることができるようになるのです。

イザベラは大切な過去を抱えていました。「エイミー・バートレット」として生きた過去。テイラーを幸せにするために生きた過去。その過去のあまりの鮮やかさのゆえに、彼女はそんな過去の自分だけが“ほんとうの”自分であるように感じていたのでしょう。そして、もし「イザベラ・ヨーク」に成りきってしまったなら、「エイミー」という“ほんとうの”自己が消えてしまうのではないかと恐れていたのでしょう。だからこそ彼女は、「イザベラ」に要求される淑女としての振る舞いを拒み続けていたのです。そうすることで彼女は、「エイミー」としての自己を懸命に守ろうとしていたのです。

デビュタントの夜イザベラがヴァイオレットに過去を語り出すのは、今まで自分の中だけで転がし続けてきた「エイミー」を、ヴァイオレットという他者に託そうとしたからです。「イザベラ」であることを自分が受け入れても「エイミー」が消え去ってしまわないように。自分以外の誰かが「エイミー」を受け止め胸の引き出しにしまっておいてくれるなら、イザベラは安心して「イザベラ」になることができる。

イザベラがヴァイオレットに自分の過去を語り出したのは、自分の人生を前に進めるためなのです。

 

しかし、手紙を書いてはどうかというヴァイオレットの提案によって、奇しくもイザベラの「エイミー」としての想いは、ヴァイオレットの手を伝って、さらに遠くまで運ばれることになりました。

その想いは、手紙の中に閉じ込められ、運ばれ、テイラーのこころに「しあわせ」を灯すことになります。

「ししょうが運んでくれたのは、しあわせなんだ」

「わたしはねえねのことを覚えてないけど、ねえねがいたことは手紙に残ってる」

消え去るはずだった「エイミー」は、テイラーの人生の中で生き続けていきます。

そして、本作の最後、イザベラのもとに手紙が届けられたあの瞬間は、イザベラにとって、大きくなったテイラーとの再会の瞬間であったとともに、テイラーの中で息づく「エイミー」との再会の瞬間でもあったのかもしれません。

本作の中で取り交わされた2通の手紙が、「イザベラ」として生きるようになったイザベラに、時間を超えて「エイミー」と出会うことを、可能にしたのです。

 

5.おわりに

ここまで、イザベラが自らの意志で「イザベラ・ヨーク」になっていく過程として、『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン 外伝』の物語(の特に前半)を辿ってきました。

イザベラは学園の中に閉じ込められ、そこから外に出ることができませんでした。それは外の世界に飛び出したテイラーと対照的に見えます。ではイザベラは、「エイミー」としての“ほんとうの”自己をヴァイオレットに託したまま、ただ抜け殻のような人生を過ごしていくしかないのでしょうか。そうではないでしょう。

「イザベラ」としてのイザベラもまたれっきとした“ほんとうの”彼女なのであり、それゆえ、「イザベラ」として生きていく人生は決して抜け殻の如きものではないのです。

ヴァイオレットと過ごした時間が、そしてアシュリー・ランカスターのまなざしが、それを彼女に教えたのでした。イザベラの、「イザベラ・ヨーク」としてのこころの煌きを。

 

デビュタントのドレスとともにイザベラのもとに届いたペンダント。ヴァイオレットのブローチとよく似た——色は全く違うけれども——そのペンダントは、イザベラの「イザベラ・ヨーク」としての「こころ」の象徴なのかもしれません。ヴァイオレットのブローチが、ギルベルトにもらった「こころ」の象徴であるように。

現在を拒絶していた少女が、現在の中へと一歩を踏み出す。そうして、自分の意志で「イザベラ」になっていく。その一歩はささやかな一歩ですが、彼女にとっては、あまりにも大きな一歩でした。

イザベラに焦点を合わせるならば、この物語はそんな一歩を描いた物語として理解することができます。

それは、なんといじらしく繊細で、美しい物語でしょうか。

 

 

今回、テレビシリーズを見てから行こうと思っていたら当初の上映予定期間だった3週間がいつのまにか過ぎ去ってしまったのですが、上映期間が延長されたお陰で劇場で観ることができました。

色彩も音楽も言葉も全てが細やかに作り込まれたまるで刺繍のような作品で、私は、これを劇場で見られたことを心から幸せに思います。

 

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