0. はじめに
2020年1月18日・19日、さいたまスーパーアリーナで開催されたラブライブ!フェス。そこで歌われなかった歌があった。スクールアイドルの素晴らしさを伝えるための歌、「SUNNY DAY SONG」だ。今回は、それについて話をしたい。
このフェスは復活したμ’sがAqours、Saint Snow、虹ヶ咲とともにあの歌を高らかに歌い上げる場なのだと、私はなんとなく思っていた。アンコール後にあの歌が歌われて大団円を迎える、そういうライブなのだと。
フェスの2日間はこの上なく楽しくて、幸せな時間だった。かつてμ’sのライブで始まりを告げる曲だったメインテーマ「始まりの朝」。暗転した会場の中、この曲が流れ始め、高坂穂乃果がモニターに映し出される。舞台上に登場する影。それとともに、「始まりの朝」が「僕らのLIVE 君とのLIFE」のイントロに切り替わる——。μ’sのキャストに初めて触れたのはFINAL LIVEの直前だった。あの頃戸惑いながら覚えたコールを、FINAL LIVEの後になって練習した「僕らは今のなかで」の振りコピを、そしてリアルタイムでは結局参加できなかった「Snow halation」の色変えを今ようやくできるんだということが、嬉しくてたまらなかった。
でも、あの歌は披露されなかった。バラバラのスクールアイドルたちのパフォーマンスは、スクールアイドルの素晴らしさという1つの大きなメッセージに収束することはなかったのである。それに私は少しだけ肩透かしを食らったような気分になってしまった。ずっとこのライブを楽しみに頑張ってきたのに、こんなことでモヤモヤしていることが悔しかった。2日目が終わった後、私は21日と22日のディレイビューイングのチケットを取った。フェスのセトリともう一度向き合わなければならないような気がしたのだ。そして、考えなくてはならないと思った。ラブライブ!フェスはスクールアイドルの素晴らしさを歌い上げるライブではなかったのか。そうでないとすれば、このライブは一体何だったのか、と。
サニソンというか、ラブライブシリーズを総括するような何らかのパフォーマンスをやらなかったことへのモヤモヤがずっと頭を離れない。
— ふゆ (@ichik_ing_LL) 2020年1月19日
ラブライブフェスのセトリともう一度向き合うために、我々はディレイビューイングの奥地へと向かった。
— ふゆ (@ichik_ing_LL) 2020年1月19日
この記事は、18日のDay1から22日のDay2ディレイビューイングに至るまでの5日間の中で私の中で行われたいわばすり合わせ作業を、つまりフェスのセトリに納得するまでの過程を、書き留めておくためのものだ。私がここに書いておきたいのは、このライブで「SUNNY DAY SONG」が歌われなかったということにむしろ積極的な意義を感じるようになったという、認識の変化である。
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- 0. はじめに
- 1. スクールアイドルの神話
- 2. Aqoursの固有の物語
- 3. 「SUNNY DAY SONG」が歌われなかったということ
- 4. 解放の場所としてのラブライブ!フェス
- 5. おわりに
1. スクールアイドルの神話
2019年5月30日の9周年記念発表会でラブライブ!フェスの開催が告知されて以来、沢山の人達が「全員で踊るSUNNY DAY SONGが見たい」と言っていたように思う(体感)。そうした言葉を耳にするにつけて、私もまた、ラブライブ!フェスを「SUNNY DAY SONG」に象徴される一つの大きな物語が現出するはずの場だと思うようになり、そういう心構えでフェスに臨もうとするようになっていった。まずは、この考えがそもそもどこからやって来たのかを振り返るところから始めよう。
「SUNNY DAY SONG」には、『ラブライブ!The School Idol Movie』(以下『劇場版ラブライブ』)の劇中で明確な意味が与えられている。それは、「スクールアイドルの素晴らしさ」を伝えるための歌というものだ。μ’sは終わらせる。なぜなら自分たちはスクールアイドルが好きだから。「限られた時間の中で精一杯輝こうとするスクールアイドル」こそが、自分たちが好きだったものだから。ライブの前日、このことを意を決して他のスクールアイドルに告げた穂乃果は、「でも」と続ける。
穂乃果:でも、ラブライブは大きく広がっていきます。みんなの、スクールアイドルの素晴らしさを、これからも続いていく輝きを、多くの人に届けたい。私たちの力を合わせれば、きっとこれからも、ラブライブは大きく広がっていく。だから、明日は終わりの歌は歌いません!
A-RISEであろうとμ’sであろうとあるいは他のグループであろうと、スクールアイドルであるならば、誰もが素晴らしい輝きを持っている。「SUNNY DAY SONG」は、そのことを宣言するための曲だった。そして、たとえμ’sが終わっても、スクールアイドルの輝きは絶対に終わりになることはないのだという穂乃果たちの想いが、願いが、この曲には込められている。
この曲の持っているこうした文脈はラブライブ!フェスの文脈と重なるものであるように思えた。
9周年記念発表会以後頻繁に使われるようになった「ラブライブ!シリーズ」という呼称。それに続くスクスタのリリースやラブライブANNの放送。そんな中で私たちは、これまでバラバラであった諸々のラブライブ!を一続きの全体として見る視点を明確に獲得した。穂乃果たちにのみフォーカスしていた視聴者に「SUNNY DAY SONG」がスクールアイドル一般という広がりを見せたように、上のような出来事は、あるいは無印にあるいはサンシャイン‼にあるいは虹ヶ咲にバラバラに目を向けていた私たちに、ラブライブ!一般という広がりの全体を見せた。それによって私たちの目に映るようになったのは、〈スクールアイドルの輝きはずっと続いていく〉という、個別の物語を超えたより大きな一つの物語だった。
あのFINAL LIVEをもって時を止めた現実世界のμ’s。でも、μ’sが終わっても、スクールアイドルの輝きは終わらなかった。ラブライブは大きく広がってきた。そしてその輝きが今やμ’sを呼び戻しすらした。これが劇中で穂乃果たちが「SUNNY DAY SONG」に込めた願いの現実化でなくて何であろうか。そう思えた。
μ’sが終わってもスクールアイドルの輝きはずっと続いていき、広がっていくーー。この大きな物語を、便宜上、〈スクールアイドルの神話〉と呼んでおこう。
少なくともAqoursや虹ヶ咲のナンバリングライブに関して言う限り、ラブライブ!のライブはいつも、何らかの物語を実感とともに受け止めるための儀式空間であった。だからライブの前には皆、新曲のコールを覚えるだけでなく、アニメを見返すなどしてその曲の文脈を確認し、ライブで現出するであろう物語を受け止めるための心構えを作るのである。
私を含め多くの人が、ラブライブ!フェスで現出するのは〈スクールアイドルの神話〉だと予想したことだろう。言い替えるなら、フェスは穂乃果たちの願いが現実になったことを実感するための最大の場になるはずであり、したがって、その願いの象徴である「SUNNY DAY SONG」が全員で歌われるにこれ以上相応しい場は無いだろう、と。私がフェスに向けて『劇場版ラブライブ!』を見返したのはそれを受け止める心構えを作ろうとしてのことだったし、私の周囲の人達の何人かがフェスへの意気込みを語るブログで「SUNNY DAY SONG」の歌詞を使っていたのもおそらくそうなのだろう。
でも「SUNNY DAY SONG」は歌われなかった。ラブライブ!フェスは上述の『劇場版ラブライブ』の文脈には接続されず、それゆえ、〈スクールアイドルの神話〉があちら側から明確に提示されることも無かった。もしかしたら、やろうとは試みたがいくつかの現実的・物理的な制約から実現できなかったのかもしれない。だがそれに関して私たちの知る余地は全く無い。
確かなのは、ラブライブ!フェスのセトリは「SUNNY DAY SONG」無しで成立するものとして完成したということだ。これが意味するのは一体何なのだろうか。
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- 0. はじめに
- 1. スクールアイドルの神話
- 2. Aqoursの固有の物語
- 3. 「SUNNY DAY SONG」が歌われなかったということ
- 4. 解放の場所としてのラブライブ!フェス
- 5. おわりに
2. Aqoursの固有の物語
私は〈神話〉に無意識に固執してしまっていた。Day2、Saint Snowのパフォーマンスが終わり「始まりの朝」が流れ始めた瞬間、Aqoursのパートとμ’sのパートが前日とは逆になることを悟るとともに、私の脳裏をよぎったのは「SUNNY DAY SONG」への期待だった。前日とは大きく内容が変わるのかもしれない、それなら今日はサプライズで「SUNNY DAY SONG」が歌われるのかもしれない、と。ラブライブ!フェスは〈スクールアイドルの神話〉を現出させる場であるはずで、だから最後は〈神話〉の原点たるμ’sあるいは「SUNNY DAY SONG」に収束するはず。そんな思い込みに私はとらわれていたのである。私はこの思い込みと実際のラブライブ!フェスとの乖離を2日間のさなかに埋めることができなかった。だから、フェスのラストの曲として歌われた「君のこころは輝いてるかい?」に全ての気持ちを注ぎきることができなかったし、むしろ歌われるはずの曲が歌われないままに終わってしまった不完全なライブだという印象が心の隅に残ってしまった。そこで私は、ディレイビューイングで改めてフェスのセトリと向き合うことにした。
ディレイビューイングまでの間私は、ラブライブ!フェスをAqoursを中心に置いて捉えなおしてみることにした。私をそう促したのは、付き合いのあるオタクの感想ブログだ。そこでは、Day2の「始まりの朝」が流れ始めμ’sとAqoursの順番が交代することを悟った瞬間のことが、次のように書かれている。
嬉しくてしょうがなかった。
〔…中略…〕
自分が大切にしているAqoursがこんな形で「ラブライブ!」シリーズのお祭りでトリを務める存在となってくれたことがあまりに誇らしくて嬉しかった。
本当にそれだけ。
シンプルな感想だ。μ’sの復活が大々的に宣伝されたラブライブ!フェス。Day1はμ’sがトリを飾った。誰もがμ’sの登場を待ちわびたし、μ’sのパートが間違いなくすべてを持って行った。虹ヶ咲もAqours(およびSaint Snow)も明らかにμ’sの前座であったが、時間を直線的に遡るような綺麗な構成に、文句を言う者もいなかっただろう。だがラブライブ!フェスは、μ’sのための場所として終わりはしなかった。Day1の綺麗な直線的な構成が敢えて崩され、Aqoursがトリに置かれたDay2。そのいびつな構成は、強烈なメッセージだ。μ’sとAqoursは、どちらが上だとかどちらが偉いだとかは一切無く、ただ対等に並び立つ存在である。私は、何も考えずにこのメッセージを全身で受け止めるだけでよかったのだ。なぜなら私もまた、Aqoursを追いかけてきたラブライバーなのだから。
私は少しずつ気がついた。フェスに向けてμ'sを意識し、〈スクールアイドルの神話〉を意識するあまり、私はAqours固有の物語を眼差すことを忘れてしまっていたのかもしれない、と。
22日、Day2のディレイビューイングに行く前、私は1年前にNHKで放送された『シブヤノオトPresents Aqours東京ドームへの道』を見返してみた。そこには、メルパルクホールでの最初のライブにおける舞台裏の円陣の様子が収録されていた。
ナレーション:集まってくれたファンの声援。μ’sの後継者として受け入れてもらえるのか、常にそんな不安を抱えていたAqoursに、ある決意が芽生えた瞬間でした。
伊波杏樹:残そう。相手を思いやって、相手のために、みんなのために頑張るグループにしよう。
〔…中略…〕
ナレーション:μ’sの背中を追うのではなく、みんなのために頑張るグループになる。歌もダンスも声優も、ほとんど初心者だった9人は、応援してくれる人たちのため、一丸となり特訓。徐々にAqoursを応援するファンも増えていき、回を増すごとに大きなステージへ。
「μ’sの背中を追うのではなく、みんなのために頑張るグループになる」。このナレーションに、はっと気づかされた。Aqoursの輝きの源にあったのは、最初の時からずっと、彼女ら自身のこの想いだったのだ。彼女らはμ’sの輝きの痕跡から生まれたかもしれないが、彼女らは最初から、自分たちの力で、自分たちの想いで、輝いていたのだ。この意味で、Aqoursははじめから、μ’sの二代目などではなく、“Aqours”だったのである。そして私が魅せられたのも、私に生きる感触を教えてくれたのも、一番苦しかった時に私とともにいてくれたのも、μ’sの二代目ではなく、まぎれもない“Aqours”だ。μ’sを意識するあまり私が忘れてかけていたのはこのことだった。Aqoursがトリを飾る。これに対して私がするべきだったのは、スクールアイドルの神話などというレンズを取り払った吹きっ晒しの双眸に、ここまでたどり着いたAqoursの固有の輝きをただただ刻み付けることだったのだ。
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- 3. 「SUNNY DAY SONG」が歌われなかったということ
- 4. 解放の場所としてのラブライブ!フェス
- 5. おわりに
3. 「SUNNY DAY SONG」が歌われなかったということ
「SUNNY DAY SONG」を組み込まないことによって可能になったものがあるとすれば、それは何だろうか。おそらくそれによって可能になったのが、Aqoursをトリに据えるという、この構成なのである。
もし全員で歌う「SUNNY DAY SONG」をセットリストに組み込むなら、それはライブ全体で最も盛り上がる瞬間になったに違いない。それゆえそれはきっと大トリの曲以外ではありえなかっただろう。すべてはその「SUNNY DAY SONG」のいわば前座になっていたことだろう。スクールアイドルの神話を現出させるための前座に。そうした時、μ’sとAqoursは対等に並び立つ存在なんだというシンプルで明確なメッセージを、私たちはそのセトリから受け取ることができただろうか。各々が勝手に感じることはできよう。しかしその場にいる全員に共有されるような伝わり方にはなっただろうか。μ’sのいる場でAqoursをトリに据えAqoursをμ’sと並び立つ存在として宣言することは、おそらく、「SUNNY DAY SONG」とは両立し得ないものなのだ。ラブライブ!フェスで「SUNNY DAY SONG」が歌われなかったということに積極的な意義があるとすれば、それはもっぱらここにあるのではないか。私はそう考えるようになった。
〈神話〉は美しいが、ある暴力的な側面を持っている。μ’sが終わってもスクールアイドルの輝きはずっと続いていき広がっていくという大きな物語。そうなるようにと穂乃果たちが「SUNNY DAY SONG」に込めた願い。それが現実になったんだと、ラブライブ!シリーズ9周年の現在を粗描することはできる。しかし、〈神話〉にこだわってしまった私がそうだったように、それによって見えなくなってしまうものがある。それは、AqoursやA-RISE、Saint Snow、虹ヶ咲といった各々のスクールアイドルの固有名であり、彼女らの固有の物語である。μ’sは雨を止めることができるかもしれないが、Aqoursは雨を止めることはできない。でも、その雨に日差しが注ぐと虹がかかるということを、Aqoursは知っている。スクールアイドルの神話は、それぞれのスクールアイドルの固有の軌跡を、スクールアイドル一般の物語へと抽象化してしまう。そうして残るのは、ただ〈神話〉の原点にいるμ’sの名前だけである。
だとするなら今回のセトリは、ひとつの重要なことを暗に私たちに告げているのだ。すなわち、諸々のラブライブ!が「ラブライブ!シリーズ」として総括されるということは、それらが〈スクールアイドルの神話〉の中に取り込まれるということを意味しはしないのだということを。
「SUNNY DAY SONG」のあるセトリはわかりやすくて綺麗なセトリになっただろうが、対して「SUNNY DAY SONG」無きセトリは、いびつではあるがそれぞれのスクールアイドル固有の物語が曇りなく見えるセトリである。ラブライブ!フェスにおいて選ばれたのは、後者だったのである。
他の感想ブログでもすでに言われていることだが、「SUNNY DAY SONG」に込められた願いは、あくまで穂乃果たちの物語における穂乃果たちの願いであって、スクールアイドルそれぞれの物語を覆い隠すような神話と化すべきものではなかったのだろう。
でもね、あの曲はμ’sの輝きを内包する曲です。μ’sと同じ輝きを手にした「みんな」の曲。それがμ’sの物語だった。しかしAqoursが見つけた輝きって、その「SUNNY DAY SONG」とは真逆のものです。虹ヶ咲の輝きだって、まだ完成されてはないけど、先輩たちの二番煎じみたいなものではないはず。
私たちが魅了されたのは、抽象化されたスクールアイドルの神話だっただろうか。違う。私たちが魅了されたのは、もっと個別的な、キャラにせよキャストにせよ、泥臭く走る個人たちの姿だ。それは一つの大きな物語へと一般化することのできない、別々の物語だ。きっと、〈スクールアイドルの神話〉などというものは存在しないのだろう。存在するのは、虹ヶ咲、Saint Snow、Aqours、そしてμ’sそれぞれの、ただの人間の物語。9年間を形作ってきたのはこの人間の物語であり、ラブライブ!フェスはもっぱらそれだけを曇りなく伝えようとするライブだったのである。
「SUNNY DAY SONG」が検討されたのか検討されなったのか、検討されたとして、現実的な制約のために断念されたのかそれとももっと積極的な理由から却下されたのか、私たちに知る余地は無い。だが、ラブライブ!フェスのセトリはいずれにせよ「SUNNY DAY SONG」無しで組み立てられた。ここまで語ってきたような仕方で考えるなら、「SUNNY DAY SONG」が歌われなかったということに私たちははっきりとした意味を見出すことができる。すなわち、「SUNNY DAY SONG」が歌われなかったことによって、ラブライブ!フェスは〈スクールアイドルの神話〉から明確に切り離されたライブとなったのである。Aqoursがトリを担うことも、それによってはじめて可能になったのだ。
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- 1. スクールアイドルの神話
- 2. Aqoursの固有の物語
- 3. 「SUNNY DAY SONG」が歌われなかったということ
- 4. 解放の場所としてのラブライブ!フェス
- 5. おわりに
4. 解放の場所としてのラブライブ!フェス
Day2のディレイビューイング、私はそれに、〈スクールアイドルの神話〉などというレンズを取り払った吹きっ晒しの双眸で臨むことにした。自分の大好きなAqoursの輝きを今度こそ全力で受け止めようと思った。そんな私の目に、ラブライブ!フェスは、はじめに予期していたのとは大きく異なったものとして映った。既に述べたように、このライブはμ’sを中心にスクールアイドルたちがスクールアイドルの素晴らしさを歌い上げるライブなのだと初めは思っていたし、Day2当日が終わってからもそう思おうとしていた。それに対し、新たな見え方というのは次のような見え方である。すなわち、このライブはAqoursをμ’sの“影”から解き放つためのライブだったのかもしれない、と。Aqoursがトリを担ったのは、まさにその象徴だったのだ、と。もちろんこの捉え方が正解だと言いたいわけではない。自分がそのような捉え方によってフェスを自分の中に落とし込んだという、それだけの話だ。
先に、Aqoursはμ'sの二代目ではなく“Aqours”なんだと述べた。しかしそうは言っても、事実としてAqoursはμ'sと比較されることを運命付けられていた。いかに泥を塗らないようにするか、いかに追いつくか、あるいはいかに距離をとるか——Aqoursの歴史は、μ’sの輝きとの苦闘の歴史であったと言ってもよい。Aqoursはμ’sの背中を追いかけているわけではないのだと、2つのグループの夢の軌道は違うものなのだと、意識させられる機会は幾度もあった。でもやっぱり、FINAL LIVEに至るまでμ’sが歩んだ6年間の軌跡はこれまで、ラブライブ!サンシャイン‼に対する動かざる尺度として絶えず機能していた。μ’sは、Aqoursを繰り返し葛藤の中へと投げ込む呪いのようなものであり続けた。いや、μ’sがというのは不正確だろう。Aqoursにつきまとっていたのは、μ’sの記憶であり、μ’sの“影”である。μ’sは過去という手の届かない場所にある星であり、そこからやってくる実体無き不動の“影”と、伊波さんたちAqoursはずっと格闘してきたのだ。
ラブライブ!フェスはAqoursがそんなμ’sの“影”からようやく解き放たれた場所だったのだと、私は思った。このライブにおいてAqoursは初めて、μ’sの“影”ではなく、μ’sそのものと同じステージに立つことになった。Aqoursは「届かない星だとしても」と「君のこころは輝いてるかい?」を引っ提げ、彼女らの大好きな本物のμ’sに対して、全身全霊をかけておのれの輝きをぶつけた。その姿は、いかにAqoursが大きな存在になったかを、そしてAqoursをμ’sと比較することがいかに馬鹿馬鹿しいことであるかを、そこにいたあらゆる人に対してこの上なく力強い仕方で証明したことだろう。そしてまた、μ’sの時間が動き出し、その軌跡が開かれたものとなった今、Aqoursの航跡に尺度を提供するものは一切無くなった。それゆえこれからのAqoursの航海は、真に地図無き自由な航海である。ラブライブ!フェスはこうして、Aqoursをμ’sの“影”から解き放ったのである。
Day1終わりのMCの伊波さんは、語彙力を失ったただの限界オタクになっていた。その直前の伊波さんは、「Snow halation」を生音の聴こえる舞台裏のモニターで1人で見守っていたのだという*1。何を思いながら見ていたのだろう。まだ一介のラブライバーだったいつかのことを思い出していたのだろうか。伊波さんがもともと小泉花陽推しのラブライバーだったことは有名な話だ。Twitterで伊波さんの過去ツイを検索してみると、「かよちんのおにぎりになりたい」と言っている限界ツイートが出てくる。高海千歌役としての彼女の原点にあったのは、μ'sが好きだという気持ちであった。他のキャストもそうである。でも純粋な好きの対象だったはずのμ'sは、彼女らがAqoursになった時を境に、壁へと変化した。伊波さんが5thライブのMCで言っていたことが思い出される。確か、「好きなものを好きでいつづけることって、すごく難しいことだと思います」というような言葉だったか。多くの重圧の中で、好きという想いがわからなくなったこともあったのかもしれない。彼女らがいかほどの葛藤を経験してきたのか、私たちには貧困な想像を働かせることしかできない。だが今μ'sを呼び戻したのは、Aqoursである。Aqoursがここまでがむしゃらに駆け抜けてきたからこそ、ラブライブ!フェスは開催されたし、μ'sの時間も動き出したのである。伊波さんたちAqoursの原点にあった、μ’sが好きだという想い。μ’sの“影”と格闘しながらその想いを守り抜いてきた歳月は、今やっと報われたのかもしれない。
2日間のラストを「君のこころは輝いてるかい?」が飾ったということ。この構成は、Aqoursがμ’sの“影”から解放され、彼女らの歳月が報われたということの、最大の象徴であるように私には感ぜられる。ラブライブ!フェスは彼女らのための「びっくりなプレゼント」だったのかもしれない。Aqoursをトリにするということは誰が提案したのだろうか。彼女ら自身ではないだろう。では一体誰がそれを提案したのだろうか。少し気になるが、これもやはり私たちに知る余地は無い。いずれにせよ、少しいびつなこのセットリストは、Aqoursの歩んできた道への愛に満ちた、とてもあたたかくて素敵なセットリストなのだ。ディレイビューイングを経た今、私ははっきりと、そう思うようになった。
降幡:これが最後のね、トリの曲で良かったなって、2日目。こう、Aqoursがやってきたことは間違ってないっていうのを、なんかこう、自信をもって皆さんに届けられたんじゃないかなって思う。
(ラブライブ!サンシャイン‼Aqours浦の星女学院RADIO!!!、2020年1月22日更新分(第198回))
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- 0. はじめに
- 1. スクールアイドルの神話
- 2. Aqoursの固有の物語
- 3. 「SUNNY DAY SONG」が歌われなかったということ
- 4. 解放の場所としてのラブライブ!フェス
- 5. おわりに
5. おわりに
まとめよう。ここまで、「SUNNY DAY SONG」が歌われなかったことのモヤモヤから出発して、このセットリストに納得するまでの私の思考の過程を書き連ねてきた。
多くの人が見たいと言っていた全員で踊る「SUNNY DAY SONG」。それが検討されたのかされなかったのかはわからない。しかしそれが無かったおかげで、このラブライブ!フェスは〈スクールアイドルの神話〉から明確に切り離されたライブとなり、Aqoursの「君のこころは輝いてるかい?」が2日間を締めくくるという構成も可能になったのだ。そしてこの構成は、このライブがμ’sの“影”からAqoursを解放するライブであり、Aqoursの今までの歳月に報いるライブであったということの象徴であるように私には思える。
スクールアイドルの普遍的な素晴らしさを歌い上げるライブは、確かに綺麗で美しいものになっただろう。でもそれによって覆い隠されてしまうのはスクールアイドルの固有名であり、彼女らの固有の物語である。9年間を実際に作ってきたのはむしろそうした普遍化されないバラバラの人間の物語なのであり、ラブライブ!フェスはまさにそれが、それこそが、曇りなく見えるライブにならねばならなかったのである。
ディレイビューイングまでの時間の中で、私の認識は以上のように変化したのだった。
最後に少し自分語りを付け足したい。もうほんの少しだけお付き合いいただければ幸いである。
大した話ではないのだが、私の中には、ちょっとだけコンプレックスがあった。いつからラブライブに触れ始めたのか、どのようにラブライブにハマっていったのか。ラブライブ!シリーズへの触れ方のカタチは人によって全く違う。私の場合、冒頭でチラリと触れたように、μ’sのキャストに初めて触れたのがFINAL LIVEの直前だった。「μ’sありがとうプロジェクト」としてμ’sのライブ映像の上映会が映画館で毎週行われていた時期に、友人に誘われてついていったのである。μ’sFINAL LIVEはディレイビューイングを見に行った。しかし、私はそこで、「いまが最高!」と何度も叫ぶ声に込められた人々の思いを、うまく理解することができなかった。理解したかったができなかった。μ’sの重ねてきた年月を、あるいはμ’sを追いかけた人達の重ねてきた年月を、私自身は共有していなかったからだ。だから私は実質的に、μ’sのことをほとんど知らない世代に属する。
だからこそ、今回のフェスはμ’sを強く意識しながら臨んだ。あの時に理解できなかった気持ちを理解したいと、今度こそ理解しなければならないと思った。フェスの当日に抱えたモヤモヤに私は自分が思いの外「SUNNY DAY SONG」にこだわっていたことに気付かされたが、これも多分、上のような感情に関連していたのだろう。μ’sの軌跡を知らないがゆえにこそ、μ’sの伝説を感じよう感じようと一生懸命身構えていたのだ。
だが結局、私がフェスを自分の中に落とし込んだのは、Aqoursを中心に置いてこのライブを捉えることによってだった。μ’sが登場した瞬間の私の目は涙で溢れていたし、虹ヶ咲のまだ少し頼りないパフォーマンスを一生懸命応援しもした。Saint Snowの時は全力でだんすなうした。どのスクールアイドルも私は大好きだ。でもその中で一番嬉しかったのはやっぱり、「Snow halation」の余韻をAqours Shipでぶち壊していくAqoursの姿を見られたこと、μ’sの“影”にではなく本物のμ’sに自分たちの輝きをこれでもかこれでもかこれでもかとぶつけていく、そんな清々しいAqoursの姿を見られたことだった。そうして痛感したのは、どうあがいても私にとっての第一のラブライブ!はμ’sではなくAqoursであり、ラブライブ!サンシャイン‼なのだということだ。いや、もちろんそれは自分ではわかっていたことだ。だがμ’sの時からラブライブをしっかり追いかけてきた人達と自分を比べた時、自分のラブライブ!シリーズへの触れ方のカタチに少し自信が持てなくなってしまうようなところがあったのは確かだ。でも、私の大好きなAqoursが馬鹿みたいにAqours Shipで乗り込んで来る姿は、なんだか私に自信を持てと言ってくれているような気がした。私は他の人になることはできない。私には、私なりの触れ方のカタチしか無い。でも、私なりの触れ方のカタチならば、確かにあるのだ。そのことに胸を張れと、言われたような気がした。それゆえ、大袈裟な言い方をするなら、ラブライブ!フェスは私たちファンにとってもまた、ある種の解放の場所であったのかもしれない。
あー、本当にスッキリした。
— ふゆ (@ichik_ing_LL) 2020年1月22日
自分はサニソンを見たかったというよりも、μ'sの神話、スクールアイドルの神話に勝手に囚われていただけなんだ。
どのラブライブも好きだけど、自分の中核にあるのはどう頑張ってもラブライブ!サンシャイン!!だ。μ'sの神話を感じようとしすぎて、そんな自分の好きの形がわからなくなっていた。
— ふゆ (@ichik_ing_LL) 2020年1月22日
さて、今回の記事は「SUNNY DAY SONG」が歌われなかったことに積極的な意義を見出だそうとするものだったが、何も「SUNNY DAY SONG」がダメだと言いたいわけではない。フェスに向けて毎日のようにこの曲を聴いたが、その中で私はこの曲の底抜けの明るさが大好きなのだと強く感じた。
SUNNY DAY SONG SUNNY DAY SONG 高く跳びあがれ どんなことも乗り越えらえる気がするよ
(μ’s「SUNNY DAY SONG」、 作詞:畑亜貴、2015年)
全員で歌う「SUNNY DAY SONG」が見たいか見たくないかで言えば、やはり絶対に見たい。でも、今はその時ではなかった。今はAqoursが、μ’sの“影”から解き放たれなくてはならなかったのである。μ'sがいつかまたステージに立つ日が来るのか、来ないのか、それは全くわからない。しかし「ラブライブ!シリーズ」はまだ地図無き航海を始めたばかりだ。いつか私たちの夢が叶う日が来ると信じつつ、気長に行く末を見守ることとしよう。
***Thank you for reading***