MOMENT ICHIKING

ラブライブデイズ、指にキラリ。

二項対立から逃れるということ ―西浦みかん大使コラボイラストの論争の中で抱いた違和感―

0. はじめに

 今年の2月、アニメ『ラブライブ!サンシャイン‼』と静岡県南駿農業協同組合(以下「JAなんすん」)とがコラボしたイラストが、批判を受け、炎上する出来事があった。

 あの時は引っ越しを控えていたためブログを書けなかったのだが、今さらながら、あの出来事について少し文章を書きたいと思う。

 

 はじめに言っておくなら、この記事の目的は、あのイラストの是非やJAなんすんの対応のあり方に関して何か意見を申し立てることにはない。私自身はイラストへの批判に賛同しているが、今になってそれを論じてもあまり意味は無いだろう。


 この記事で語りたいのは、『ラブライブ!サンシャイン‼』のファンである私が、あの論争の中で感じていた、ある苦しさと違和感についてである。

 イラストは批判されるべきものかそれともそうでないのか。作品やJAの側はどう対応するべきなのか。そうした問題を巡って、Twitterのタイムライン(TL)上を強い言葉たちが行き交っていた。そこに形成されていたのは「フェミニストvsオタク」という二項対立的な構図だった。私が苦痛や違和感を覚えていたのはそんな構図に対してだ。どうしてこんなにも両者はすれ違わねばならないのか。そこに対話をする余地は無いのだろうか。本記事では、あの時私の胸の内にあったこうしたモヤモヤした想いに、言葉を与えてみたいと思う。

 

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1. 経緯の確認

 まずは事の経緯を振り返っておこう。 

  1. 2020年2月12日、『ラブライブ!サンシャイン‼』のキャラクター高海千歌がJAなんすんの「西浦みかん大使」に就任したことが、ららぽーと沼津で展示が開始されたコラボイラストのパネルの前に立つ千歌役の伊波杏樹さんの写真とともに、ラブライブ公式Twitterアカウントで発表された。
  2. それに対し翌日、「イラスト内のスカートが透けている」という指摘がTwitter上でなされ、それをきっかけに、イラスト内のスカートの表現の是非に関して議論が巻き起こり、拡大していった。
  3. そんな中ららぽーと沼津にクレームが複数寄せられ、それを受けて16日、JAなんすんはららぽーと沼津のパネルを撤去することとなった*1
  4. その後ネット上ではパネルの再設置を求める署名運動がなされ*2、最終的には2万人ほどの署名が集められた。だが結局再設置はされないまま、もともと展示終了予定だった3月末を過ぎ現在に至っている*3

 経緯としてはざっと以上のようなところだろう。件の指摘が本当に透けていると思ってなされたものなのか、それともスカートの影の不自然さを婉曲的に言っただけのものなのか、それは定かではない。いずれにせよ、それをきっかけに巻き起こった議論では、スカートに入れられた影やスカートの短さが問題にされ、それらが不自然かどうか、あるいは問題があるかどうかが焦点となった*5。また、JAなんすんがパネルを撤去してからは、そうした対応の是非に関しても議論の的になった。

 

 

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2. 「フェミニストvsオタク」という二項対立

 最初に触れたように、私自身はイラストへの批判に共感的だ。だが、この記事ではそれを論じたいわけではない。

 

 議論がどこに行き着くのかに関係なく、あの時の私はある苦痛を覚えていた。

 様々な見知らぬ人々の強い言葉がTLに浮かんでは流れ去っていき、主張の応酬の中でディスコミュニケーションが加速していく。そんな濁流の中で、私の普段親しくしている人達の何人かは、この問題を考えるのが苦しいと言うようになった。私は考え続けようとした。顔を背けてはならないと思った。しかしぐるぐると考え続けるうちに、私は涙を流してしまっていた。自分もまた傷ついていたのだということを私は知った。

 あの苦しさは何だったのだろう。自分の大好きな作品が「否定」されるから苦しかったのだろうか。少し違う。批判が向けられていたのはスカートの描き方であって、作品自体やコラボすること自体ではない。では私は一体何に傷ついていたのだろう。

 私を苦しめていたのは、おそらく、あの場を支配していた「フェミニストvsオタク」という二項対立的な枠組み、あるいはそうした空気そのものだ。

 

 件の指摘をきっかけにTwitter上で起こった一連の論争は、「フェミニスト(批判側)vsオタク(擁護側)」という、2つの陣営の対立という形をとっていた。

 “フェミニスト”の立場からは、あのスカートの表現が女性の性的客体化を社会的に強化するものとして批判される。それに対して、“オタク”の立場からは、不当な言いがかりだとしてその批判への反発が沸き起こる。そんなふうに論争が続くにつれて、2つの陣営のすれ違いは大きくなっていった。

 

 なぜかくも両者はすれ違うのか。これに関して、TLに流れてきたあるツイートで次のようなことが言われていた。

いわく、今回のような炎上は、女性という弱者の歴史とオタクという弱者の歴史が交差する舞台となっている。この舞台の上では、女性を抑圧から解放すべく上げられたフェミニストの声が、同時にオタクを弾圧する声としても響いてしまう。だからどちらの主張にもある怒りの感情がこもることになり、両者の断絶は必然的に大きくなっていく。確かに、それなりに納得させられる分析だ。

 

 だが、私の胸に引っかかっていたのは、“フェミニスト”と“オタク”は本当にそこまで断絶しているのだろうかということだ。そこに対話の余地は無いのだろうか。いや、そもそも「フェミニストvsオタク」という枠組みは、私たちにとってそれほど揺るぎないものなのだろうかーー。

 確かに、あのスカートの表現が批判されるべきか否かという問題に答えを出そうとした時、私たちは否応なく上述の二項対立の中に巻き込まれてしまうのかもしれない。しかし、この問題から少し離れてみるとどうだろう。そして改めてフェミニズムと『ラブライブ!サンシャイン!!』を眺めてみるとどうだろう。そうした時、私には両者が相反するものだとはどうしても思えない。むしろ、両者が奥底で重なり合っているようにすら思えるのだ。

 

 

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3. フェミニズムと『ラブライブ!サンシャイン‼』の重なり

3.1. フェミニズムとは

 フェミニズムとは何だろうか。まずは少し耳を傾けてみよう。

 

 私たちの社会や文化には、〈女らしさ〉に関する様々な固定観念が浸透している。〈女らしさ〉とは、女なのだからこうあるべきだというような仕方で、社会や周囲が女性に対して期待する振る舞い方のことである。この通念は、明確な制度という形でもしくは暗黙裡の先入観という形で、女性のあり方・生き方を強く縛ってきた。

 フェミニズムとは、こうした通念からくる差別や抑圧から女性を解放することで、誰かが性別を理由に不公平を被ることのない社会を実現しようとする考え方のことだ*6

 個々の女性が抱えているはずの、これがしたい、これが嫌だ、こう生きたいといった気持ち。それらは、世の中から押し付けられる〈女らしさ〉というフィルターによって、容易に存在を否定され見えなくされてしまう。フェミニズムは、そうした気持ちに寄り添い、その存在を承認しようとする。個々の女性が本当に自分らしくあれるように、と*7

 

 面白いことに、今日ではフェミニズムは〈女性による女性のための思想〉にとどまらない拡がりを持つものとして語られるようにもなっている。そうした語りによれば、フェミニズムの考え方は、男性たちにもまた自由をもたらす。

 例えば、『ハリー・ポッター』シリーズのハーマイオニー役として知られるとともにフェミニストとしても知られる女優のエマ・ワトソンは、2014年に国連で「男女平等はあなたにとっての課題でもある(Gender equality is your issue too)」と題されたスピーチを行った。その中で彼女は、「フェミニズム」という語が男性嫌悪の代名詞のようにみなされていることへの違和感を表明し、フェミニズムが目指すのはあくまでも男性と女性の権利や機会の平等だと述べる。その上で彼女が呼びかけたのは、男性も紛れもなくこの課題の当事者なのだということだった。なぜなら、男性のあり方や生き方も女性と同様に、〈男らしさ〉の通念によって縛られてきたからだ*8

私がこれまで見てきたのは、男性の成功を形作るものに関する歪められた感覚のせいで、男性たちが壊れやすく不安定になっている姿でした。男性たちもまた、平等という恩恵を受けてはいないのです。

エマ・ワトソンによる2014年の国連でのスピーチより, Emma Watson Gender equality is your issue too | UN Women – Headquarters

 

男性と女性のどちらにも、繊細でいられる自由があるべきです。男性と女性のどちらにも、強くいられる自由があるべきです。今や私たちの誰もが、男女の違いを対立的な2つの理想として捉えるのではなく、ひとつの連続体によって(on a spectrum)捉えるべき時です。

(同上)

www.unwomen.org

www.youtube.com

 

 フェミニズムが実現しようとするのは、誰かが性別を理由に不公平を被ることのない社会である。その「誰か」には、女性はもちろんのこと、男性も含まれていていいし、あるいはその他の性的少数者が含まれていてもいい*9

 確かに、「フェミニズム」という言葉には、男性を嫌悪したりポルノを撲滅しようとしたりするような攻撃的・闘争的なイメージがどこかまとわりついているのかもしれない。しかしこうして耳を傾けてみることでわかるように、それは必ずしもフェミニズムの核心ではない。〈女らしさ〉や〈男らしさ〉といった通念の下に押し込められ存在しないことにされてしまっている、誰かのありのままの気持ち。フェミニズムの核にあるのはむしろ、そうした気持ちに寄り添い、それを肯定しようとする姿勢なのだ。私はそう理解する。

 

3.2. 『ラブライブ!サンシャイン‼』が描くもの

 では『ラブライブ!サンシャイン!!』が描いてきたものは何だろうか。少し思い返してみよう。

 

 例えば、自分は普通だからと手を伸ばすことを諦めていた千歌。彼女は「普通の高校生なのにキラキラしてた」μ'sとの出会いをきっかけに「輝きたい」という想いに従うようになった。

 自分には向いていないからとスクールアイドルを敬遠した花丸。彼女は、ルビィの強い誘いと千歌の言葉によって、スクールアイドルをやってみたいという気持ちに素直になった。

 周りを気にして、普通の高校生にならなくてはいけないと考えていた善子。彼女は、「好きなものは好きでいていい」と言ってくれる人たちに出会い、“堕天使”で居続けることを選んだ。

 

 輝きたいという気持ち、何かをやりたいという気持ち、何かが好きだという気持ち。それらは最も身近なものでありながら、生きる中で、他者や社会によってあるいは自分自身によって、容易に見えなくされ忘れられてしまうものだ。『ラブライブ!サンシャイン!!』が描いてきたのは、自信の無さや失敗の経験、未来への不安など、様々なものに圧し潰されそうになりながらも、そういった気持ちにまっすぐであろうとする人間たちの姿だった。

 

 『ラブライブ!サンシャイン!!』は元気をくれる、勇気をくれる。沢山の人たちがそう語るのを聞いてきたし、この作品に背中を押されて新たな一歩を踏み出した人たちを私は何人も知っている。いや、私自身だってそうだ。

 この作品が力をくれるのは何故だろうか。それは、この作品の描いてきた人間たちの姿が、何か私たちの奥底にある輪郭のない想いに触れ、それを承認してくれるからなのだろう。一番自分に近いところにあるはずなのに、表に出すのがどこか怖くて、自分でも無かったことにしていた想いを。きっと、だからこそ私は、私たちは、この作品を好きになったのだろう。

 

 

 フェミニズムと『ラブライブ!サンシャイン‼』を以上のように捉えることが許されるなら、両者はどこか奥底で重なり合っていると言えはしないだろうか。なぜならどちらも、心の底に押し込められた誰かの気持ちに寄り添い、それを承認しようとするからだ。

 もちろん、それぞれが承認を与えるものは一緒ではないかもしれない。だがどちらも、語りかける言葉は同じであるように私には思える。気にしなくていいんだよ、と。あなたのままでいいんだよ、と。そうしてそれらは人に、ありのままの自分自身でいる勇気を与えるのである。

 

 

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4. 二項対立から逃れて

4.1. 二項対立的枠組みの暴力性

 先に、“フェミニスト”と“オタク”は本当にそこまで断絶しているのだろうかと問うた。そこに話を戻そう。

 

 まず、私は『ラブライブ!サンシャイン‼』のことが大好きな“オタク”であると同時に、フェミニズムの考え方に一定の共感を覚えもする。しかしこれは、“オタク”としての自分と“フェミニスト”としての自分という2人の自分が同居しているということとは少し違う。

 なぜなら私は“オタク”だからこの作品を好きになったわけではないし、“フェミニスト”だからフェミニズムに共感するわけでもないからだ。

 私は“オタク”であったり“フェミニスト”であったりする前に、一人の人間である。上手くいかないことやしんどいこと、あるいは生きづらさを抱えながら、何かに支えられて日々を生きる人間である。あなたのままでいいんだと語りかけてくるスクールアイドルの物語に心を奪われたのも、同じように誰かに語りかけるであろうフェミニズムの考え方に共感を覚えるのも、そうした“一人の人間”としての私なのである。

 だから、「フェミニストvsオタク」という二項対立は、少なくとも私の中には存在していないのだ。

 

 先述したように、あの時私を苦しめていたのは、まるで自明なものであるかのように論争の場を支配していた「フェミニストvsオタク」という二項対立的枠組みそのものだった。

 あのスカートの表現には問題があるのかそれとも無いのか。あるいは、作品やJAの側はどう対応するべきなのか。これらの問題に関して何かを言おうとした時、私たちは必然的に批判側か擁護側のどちらかに立つことを強いられ、「フェミニストvsオタク」という空気に参加せざるを得なくなっていく。

 しかし、少なくとも私にとっては、「フェミニストvsオタク」という二項対立は自明なものではない。あの空気は、そんな私を二項対立的な枠の中へと押し込めようとする。そうすることでそれは、“オタク”であったり“フェミニスト”であったりする前の“一人の人間”としての私を、暗黙裡に否定し見えなくしてしまうのだ。つまり、『ラブライブ!サンシャイン‼』を好きになった根本にいるはずの、“一人の人間”としての私を。あの論争の中で傷ついていたのはきっと、この “一人の人間”としての私だったのだろう。

 

4.2. ディベートとダイアローグ

 批判するべきものに批判を向けること、その批判が妥当かどうかを吟味すること、そうやって議論をすることで何かをより良くしていこうとすること。こうした営みの価値は決して否定されるべきものではない。

 しかしその議論は、特にSNS上では、ときたまエスカレートし、他者を互いに説き伏せようとし合うだけの不毛な「論争」へと変貌する。危険なのはそうした論争化した議論である。その中では、今回のような二項対立的な空気が醸成され、二項対立的な枠に収まらない何かが見えなくなっていくからだ。だが、それぞれの人を形作っているのは、本当はそうした「何か」なのではないのか。

 

 少し前に読んだ『哲学カフェのつくりかた』*10という本の中で、他者とのコミュニケーションのありかたとして、「ディベート・タイプのコミュニケーション」と「ダイアローグ・タイプのコミュニケーション」という2つが区別されていた。それによれば、ディベート・タイプのコミュニケーションは「自分の立場を固く守って相手を説き伏せる」ものであるのに対して、ダイアローグ・タイプは「自分の立場をも問い、それが変わっていくことを前提とする」ものであるという。

自分の立場を固く守って相手を説き伏せる、ディベート・タイプのコミュニケーション。それは互いの意見がすれ違うだけの不毛なコミュニケーションに終わりがちだ。

(『哲学カフェのつくりかた』p.32)

 

しかし、ほんとうは、そういうときにこそ、哲学的対話——自分の立場をも問い、それが変わっていくことを前提とするダイアローグ・タイプのコミュニケーション——が必要とされるとも言える。

(同p.33)

 

 私が論争と言ったものは、まさにこのディベート・タイプのコミュニケーションにあたる。ある特定の問題に関して、利害や意見が異なる者の間で一致した答えを出そうとしたとき、コミュニケーションはディベート・タイプのものになる。それこそ、あのスカートの表現は批判されるべきかそれともそうでないか、作品やJAの側はパネルを撤去するべきかそれともしなくていいのか、こういった問題に一生懸命答えを出そうとする姿勢が、私たちをディベートへと導いていく。しかしディベート・タイプのコミュニケーションはしばしば、二項対立的な分断状態の中に私たちを閉じ込め、私たちに他者との分かり合えなさだけを突き付けて去っていくのである。

 

 そんな時大切なのは、ディベート・タイプのコミュニケーションから逃れることによって、二項対立の外に出ることだ。そのためには、目の前の問題に答えを出そうすることを一旦やめてみることが重要である。問題から距離をとる。そうすることで私たちは、水面に現われる意見の対立に固執する代わりに、その下にある自分や相手の想いにゆっくりと耳を澄ますことができるようになるだろう。そうして互いの奥底に何か響き合うものを見つけ合えたなら、それがきっと、ダイアローグ・タイプのコミュニケーション、すなわち対話というものなのだろう。

 こうした対話は、目の前の問題に答えを与えることには結びつかない。対立した意見を調停してくれることもない。だが、二項対立に収まらない“一人の人間”として想いを響き合わせるようなコミュニケーションができたなら、私たちは、自分と違う意見を持つ誰かのことを以前よりも少しだけ穏やかな目で見られるようになりはしないだろうか。

 

 二項対立的な空気に身を委ねることは簡単だ。しかしその空気は、二項対立に収まらないところにある大切な何かを見えなくしていく。だから私は、ディベートから逃れ、二項対立から逃れ、その外側でものを考えたいと思った。“オタク”としてでもなく“フェミニスト”としてでもなく“一人の人間”として、ゆっくりと丁寧に。

 

***

 

5. おわりに

 この文章では、2月に西浦みかん大使コラボイラストが炎上した際に自分が抱いていた苦痛や違和感を言語化することを試みてきた。

 

 ここまで批判してきた「フェミニストvsオタク」という二項対立的な空気は、言葉が強い一部の人たちによって作られていったものだ。私は、どちらの立場であるかにかかわらず、そういう人たちのことが嫌だった。自分の大好きな『ラブライブ!サンシャイン‼』の空間を踏み荒らしているのは“フェミニスト”ではなく、そうした人たちなのだと感じていた。

 

 “フェミニスト”を敵視するのは違う気がするが、かといって“オタク”を敵視したいわけではもちろんない——私は、そんな「どっちつかず」な想いを心の隅に持っていた“オタク”は案外多いのではないかと、勝手に推測している。

 当然ながら、フェミニズムをどのようなものと理解しているかによって、フェミニズムへの態度の取り方は人ごとに違ってくるだろう。だが、上のような「どっちつかず」の気持ちをどう表現したらいいのかわからないまま二項対立的な空気の中に巻き込まれ、その中で自分の大切な何かがわからなくなっていくようなそんな苦しさを、きっと多くの人が心に抱えていたのではないか。少なくとも、私はそうだった。

 

 正直言って、今回書いたことで自分の抱えていた違和感を全て表現できたのかはよくわからないし、あの炎上から2ヶ月近くたった今になってこんな文章を上げる意味がどこにあるのかもよくわからない。だがそれでも、私はこの違和感を語っておきたかった。整理をつけないままで忘れ去りたくはなかった。

 私がこの文章を通して誰かに伝えたかったことがあるとすれば、それはただ次のようなことだ。すなわち、私のような「どっちつかず」の想いがあっていいし、その「どっちつかず」の想いこそが一番大切にするべきものなんじゃないかということ。私はそんなごく当たり前のことに、言葉を与えてみたかったのである。

 

 

***Thank you for reading***

*1:参考:透けて見える? 絵柄に批判、ラブライブパネル一時撤去 沼津|静岡新聞アットエス

*2:以下のキャンペーンサイトに、署名運動の主催者による趣旨の説明が書かれている。なおそこでは、これは再設置そのものを目指すものというより、「”撤去する必要はない”という意見を支持する人がこれだけ居る」というまとまった意思表示を公的な形で行うことが目的の運動だと説明されている。

www.change.org

*3:パネルの再設置がされなかったこと等については、署名運動の進捗報告の中に記載されている。3月末が過ぎたことで現在は署名運動は終了しており、意思表示の目的は達成したとして、主催者からJAなんすん宛に署名運動の最終報告が提出されている。

www.change.org

www.change.org

*4:これに関してはしっかりとしたソースがないため、Twitterで「沼津みなと新鮮館 みかん大使」とでも検索して、オタク達が上げている写真を見てください。

*5:イラストが不自然であるからといって、必ずしも問題があるということにはならない。ではなぜ今回のイラストは問題があるとみなされうるのか。これについては、JAなんすんのポスターのこと - こづかい三万円の日々というブログ記事で論点が整理されている。是非読んでみてほしい。

tegi.hatenablog.com

*6:この定義は、オンライン上の哲学事典Stanford Encyclopedia of Philosophyの、Feminist Philosophyという項目でなされている定義を参考にした。そこでは、1.Introductionにおいて、「フェミニズムとは、女性に対する公平さを実現しようとするとともに、あらゆる形態の性差別に終止符を打とうとする知的取り組みないしは政治的運動である」と述べられている。参考:Feminist Philosophy (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

*7:例えば次のネット記事ではフェミニズムにまつわるある女性の経験が具体的に語られている。

gendai.ismedia.jp

*8:こうした男性のあり方に関する研究は、「男性学」と呼ばれる分野を築いており、フェミニズムを補完するものとなっている。田中俊之の『男子が10代のうちに考えておきたいこと』(2019年、岩波ジュニア新書)が、こうした視点を非常にわかりやすく解説してくれている。

www.iwanami.co.jp

*9:2018年にはお茶の水女子大がトランスジェンダー女性の受け入れを発表し、議論が巻き起こった。次のネット記事ではトランス女性の受け入れに肯定的な立場から論点が整理されており、一読に値する。

note.com

*10:鷲田清一監修・カフェフィロ編, 2014年, 大阪大学出版会。これは、近年拡がりを見せている「哲学カフェ」と呼ばれる活動に関しての、その運営者たちの論考を集めた本である。本記事に引用した部分は本書の第2章「ガラパゴス化する「東京哲学カフェ」?ー哲学カフェの進化とは何か」(寺田俊郎)より。

www.osaka-up.or.jp