深呼吸の時間

ラブライブとか 読書とか

アニメ『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』の描いた「絵空事」

 

 先日,アニメ『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』(以下,アニガサキ)の最終話が放送された。放送中に感想を書いたりということはできなかったのだが,放送終了時点での印象をせっかくなので書き留めておきたい。

 第1話の放送時にものすごく気持ちが盛り上がったものの,途中の回では正直気持ちが盛り下がってしまっていた。全体を通して不満が無いと言えば嘘になる。だが,最終話まで見終えてみて,私はこのアニメが好きだと強く感じた。

 

 

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 アニガサキはどういう物語だっただろうか。簡単に総括してみよう。

 

 前提として,アニガサキの物語には,大きく2つの要素があった。

 1つ目は,バラバラの個性を持ったスクールアイドルたちの,ゆるやかな絆の物語という要素である。9人の少女たちは,グループという1つの色に自分たちを染める代わりに,支え合いながらもそれぞれの色を大切にする道を探っていく。虹ヶ咲の虹とは,そんな多様性の象徴である。

 2つ目は,高咲侑という夢を持たざる少女が,夢を見つけてそれへと歩み出す物語という要素である。スクールアイドルの外側から“10人目”として同好会に関わる侑。その中で彼女は,9人に導かれるようにして,自分の中に芽生えた“やりたいこと”と向き合っていく。

 

 後者について少し掘り下げよう。

 高咲侑の物語は,アニガサキがスクスタとは別個の作品として独自に描こうとしたものである。高咲侑は,プレイヤーの視点である“あなた”を,キャラクターとして作中に実体化したものだ。それをする1つの意義は,“あなた”(=高咲侑)の「変化」を描けるようになるということだろう。

 そしてアニガサキは,高咲侑をまさに変化するべき存在として物語の中に置き入れた。彼女は,からっぽな胸の内に「ときめき」を灯してくれる何かとの出会いを待っている。「自分の夢はまだ無いけどさ。夢を追いかけてる人を応援出来たら、私も何かが始まる、そんな気がしたんだけどな」 第1話でこう語る高咲侑は,スクスタの“あなた”のような歩夢や同好会の導き手というよりも,もっと小さくて受動的な存在である。

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 注目すべきは,第1話の時点で,侑と歩夢の関係性が,スクスタとは異なった形で描かれたことだ。スクスタでは,歩夢がスクールアイドルを始めたのは徹頭徹尾“あなた”に誘われたからであり,自身の内側からの欲求によってではなかった。対してアニメでは,歩夢はスクールアイドルをやってみたいと自発的に言い出す。そして侑が同好会に身を置くのは,「私の夢を一緒に見てくれる?」と歩夢に言われたからである。アニメにおいては,侑は歩夢に牽引されていく存在なのだ。

 このような形でアニガサキは,スクスタでは描けない“10人目”の変化の物語を,意図的に描こうとしたのだった。

 

 そして,アニガサキは,そんな“10人目”の物語を,侑ただ一人の変化の物語としてというよりも,侑と歩夢の関係性の変化の物語として描いた。すなわち,2人一緒でなければ駄目だった歩夢と侑が,別々の夢を追うことを選び、自立した個人と個人として絆を新たに編み直すという物語である。2人で一緒の夢を見るのではなく、それぞれがバラバラな夢を追う——この土台には、グループではなくソロであることを選ぶという、同好会のスクールアイドルたちの物語と共通したものがある。

 

 つまり,アニガサキの物語を構成する2つの要素は,結局のところどちらも同じ一つの理念によって貫かれている。それは,ある種のオプティミスティックな個人主義である。一方では,はじめからバラバラな9人のゆるやかな絆が描かれ,他方では,一緒だった2人が別々の夢を追うようになる過程が描かれる。そんな2つの道筋でこの作品は,バラバラな個人であることを徹底して肯定しようとするのだ。

 しかし,バラバラになることは怖いことではないだろうか。なぜこの作品はそれを肯定できるのだろうか。それは,たとえバラバラでもわかり合い支え合うことができるんだという希望を,この作品が携えているからだ。バラバラであることを選ぶ。それは,他者が他者であることを大切にしようとすることであり,そしてそれは,必ずしも孤独になることを意味するわけではない。互いに他者であるということを大事にしながら,手を取り合い支え合う。そういう場所を,そういう関係性を築くこともできるのだ—— アニメ『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』が高らかにうたい上げたのは,そんな希望に満ちた,ひとつの個人主義であった。

 

私たちは,みんな,それぞれの場所でそれぞれのステージ。

バラバラだけど,思いは一つ。

(12話より)

 

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 絵空事である,と思う。

 現実の私たちは,多くの場合同じ道を歩むから仲間になるのだし,別の夢や考えを持った者とはなかなか心を通わせることができない。同じだった道が別々になれば,通じ合っていた心も離れていく。私たちは,虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会のような絆,歩夢と侑のような絆を,そう簡単に作れはしない。

 

 だが,この作品はまさしくそんな絵空事を,はっきりとした意志をもって描いてくれた。“あなた”とは違う存在として作中に置き入れられた高咲侑という“10人目”。そこから描かれていく彼女の変化の物語。そして,それを通して提示される,一つの個人主義。ここには,そういうものを描こうというこの上なく明確な意志がある。

 そしてこの絵空事は,絵空事ではあっても,信じてみたいと思わせてくれる絵空事であった。画面の中に閉じ込められた絵空事ではない。彼女たちの関係性をいとおしいと思わせられ,気持ち次第でそんな関係性を自分も誰かと築けるんじゃないかと思わせられ,そしてこの気持ちを胸に日常に戻ると,世界が前よりも少しだけ美しく見える。そんな絵空事だ。

 

 もっとこうしてほしかったという不満はいろいろとあった。でも,この絵空事を明確な意志をもって描こうとしたという最も根本的な部分を,私は心から好きだと思えたのだ。

 ラブライブは物語と音楽を通して,絵空事を描く。『ラブライブ!』も『ラブライブ!サンシャイン‼』も,それぞれの絵空事を力強く描いてきた。その絵空事は,私たちの気持ちを彩り,世界を彩ってくれた。そして,『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』もまた,間違いなくそういう作品だったと言えるのではないか。

 互いに他者であるということを大事にしながら,手を取り合い支え合う,9人と1人の少女たちの物語。この作品を見られたことを,私は幸せに思う。



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P.S.
2期やってください。