深呼吸の時間

ラブライブとか,読書とか

「ケア」への関心と「シリーズ ケアをひらく」の話

 先の記事( このブログの用途と最近の心境の変化について - 深呼吸の時間 )で,このブログを読書記録用の場所としても使っていきたいと考えているということを書いた。
 しかし,読んだ本すべての感想を書くわけではない。この読書記録は,ある一つの関心に沿ったものとなる予定である。今回は,その関心についてあらかじめ語っておきたいと思い,記事を書くこととした。


 オタク語りの用途で作ったこのブログでは表に出して来なかったのだが,私はここ3~4年,「ケア」と呼ばれる世界に興味を持っている。このブログでつけていくつもりなのは,この「ケア」への関心に沿った読書の記録である。そして特に,医学書院より刊行されている「シリーズ ケアをひらく」という本のシリーズを取り扱いたいと思っている。

1. 「ケア」への関心


 ケアとは何か。最初に少しだけ輪郭を与えておこう。
 言葉の意味から言えば,「ケア」は「キュア(治す)」としばしば対比される語であり,疾患や障害,老いといった弱さを抱えた人を「気遣い世話する」ことを意味する。
 そこに含まれるものとしてまず思い浮かぶのは,看護や介護といった営みである。また,「こころのケア」「デイケア」「緩和ケア」「グリーフケア」など,ケアという2文字を含む語は数多く挙げることができる。ケアとは,こうした様々な営みを含む,医療と隣り合いあるいは重なり合う一つの広大な領域のことである。

 私はケアについて専門的に学んだことは無いし,仕事もケアとは関係の無い仕事をしている。私にあるのは,ケアにまつわる本を読んだり看護師や保健師をしている友人と話したりといった貧しい経験だけである。だが,そうやってケアについての語りに触れる度に,私は,その世界にどこか心惹かれてしまうのだ。


 ケアは高齢社会を迎えて近年いっそう重要性が増している領域であるし,私が大学院で専攻していた哲学(特に現象学)でもしばしば扱われるテーマではあった。しかし,私がケアに興味を持ち始めたのは,いくつかの個人的なできごとをきっかけとしてである。簡単にだが書いておきたい。

 1つは,私の祖父が,3年半前に肺がんで亡くなる直前,2週間程度ホスピスに入院したということである。私はそこで家族として,それまで言葉だけしか知らなかった「緩和ケア」というものに触れ,様々なことを考えさせられた。何を考えたのかはぼんやりとしか記憶していないのだが,あれが,ケアというものについて思いを巡らせた最初の経験だったと思う。

 その後のことだが,私は,大学院生活においてある困難を抱え,精神科に通うようになった。その中で認識したのは,自分に発達障害の傾向があり,それが大学院生活の困難に関係しているということだった。そうして私は,自分をある種の「弱さ」を抱えた一人の当事者として意識するようになった。これもまた,ケアという領域に関心を寄せるようになった大きなきっかけの出来事だ。

 そして,こうしてケアという領域への関心が芽生えつつあった中で私が出会ったのが,上述の「シリーズ ケアをひらく」というシリーズだった。2年ほど前のことだ。発達障害について理解したいという関心の延長で読んだ本のうちいくつかが,たまたまこのシリーズに属する本だったのである。それらの本が自分に深く響いたことから,私はシリーズの他の本にも手を出すようになり,それを通じて,「ケア」の2文字はいよいよ私の関心の中心に居座るようになった。


 とはいえ,ケアへの関心は,ここ1年ほどの就職に伴う生活環境や心境の変化の中で,一時薄れてしまっていた。だが最近になって私は,ケアの世界への関心へと改めて立ち返ってみたいと思うようになってきている。
 ケアについて考えようとしたとき,ケアの現場にアクセスできない私にとって,ケアの世界への第一の窓口は読書である。つまり,このブログ上に読書記録をつけていくことは,私なりに可能な仕方でケアについての関心と思考を深めるための手段なのだ。そして私は,さしあたりは,結局一部しか読めておらずしかもほぼ読みっぱなしで来てしまった「シリーズ ケアをひらく」に,今一度向き合ってみようと考えているわけである。


2. 「シリーズ ケアをひらく」の話


 ここからは「シリーズ ケアをひらく」について簡単に紹介したい。

 このシリーズは2000年から始まった医学書院のノンフィクションシリーズで,看護や介護,精神疾患や障害など,様々なテーマで現在までに40冊弱の書籍がこのシリーズから刊行されている。白石正明さんという編集者が手掛けており,2019年の暮れにはシリーズ全体で第73回毎日出版文化賞(企画部門)を受賞するなど,今勢いに乗っているシリーズだ。そして,このシリーズの本は,次のようなキャッチコピーによって束ねられる。

「本シリーズでは,「科学性」「専門性」「主体性」といったことばだけでは語り切れない地点から《ケア》の世界を探ります」

 このキャッチコピーについては後ほど改めて触れるが,とりあえずは具体例として3冊ほど紹介してみよう。私が読んだ本は,例えば次のような本であった。

2.1. 本の紹介

野口裕二『物語としてのケア ナラティヴ・アプローチの世界へ』(2002年)


 精神医療における心理療法のスタイルの一つである「ナラティヴ・アプローチ」というものをテーマにした本。

 「ナラティヴ」とは「語り」もしくは「物語」と訳される語で,出来事を時系列の中で意味づけて語る,語り方の形式のことである。ナラティヴ・アプローチは,患者の病いにこのナラティヴ(語り/物語)が深く関わっているとみて,そのナラティヴの転換を図ることで患者を回復へと向かわせようとする。その背景にあるのは,現実は言葉から独立にあるのではなく,私たちは自らの生きる現実や自己をナラティヴ(語り/物語)によって作り上げているのだという考え方である。

 この本は,ナラティヴ・アプローチの実践を紹介するだけでなく,その背景にあるナラティヴという概念の豊かな裾野へと私たちを導き,私たちの経験にいかにナラティヴ(語り/物語)が深く関わっているかを教えてくれる。
 

浦河べてるの家べてるの家の「当事者研究」』(2005年)

 
 精神病院を退院した人達による共同施設「浦河べてるの家」で行われている「当事者研究」と呼ばれる活動をテーマにした本である。

 当事者研究とは,文字通り,統合失調症などを抱えた当事者が,自分の困難について自分自身で研究する営みである。そこでは,専門的概念を用いて説明する代わりに,当事者が自分の困難に自らの言葉で病名をつけ,その本質や対処法を探っていく。そしてそれは一人でではなく,仲間たちとともに共同で行われる。このような当事者研究という営みは,「自分の苦労の主人公になる」という体験であり,「人とのつながりの回復」のプロセスでもある。

 この本では,浦河べてるの家に属する様々な人たちの様々な当事者研究の成果が,楽しく,ユーモラスに語られていく。それを通して示されるのは,弱さを乗り越えようとするのではなく,自らの弱さを引き受け,開示し,それを通じて他者とつながっていくような,そういう生き方の可能性である。

 

伊藤亜紗『どもる体』(2018年)

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)


 吃音という障害は通常「言語」の問題として扱われる。それに対しこの本では,自分自身当事者でもある著者の手によって,吃音という障害が,「言語」ではなく「身体」のレベルの問題として考察される。

 この本において,「どもる」は,「体のコントロールが外れた状態」として記述される。私たちの体は,自分の意志に従うもののようでありながら,コントロールされていない領域を多分に隠し持っている。吃音は,そんなコントロールのきかないものとしての体が表に出てきてしまう現象である。著者は,吃音を抱えた人々へのインタビューを足場にしつつ,このような視点から,「連発」「難発」「言い換え」といった吃音当事者の経験を分析していく。

 この本は,吃音という一つの障害にスポットを当てた本であると同時に,それを通して,人間の意志と身体の関係性という,普遍的な問いに迫る本でもある。私たちはみな「自分のものでありながら自分のものでない体」をたずさえて生きている。だから私たちの主体性というものは,実は思っている以上に弱々しく,ちっぽけなものなのではないか——この本は,そんな認識へと読者を導いていく。


***

 『物語としてのケア』は私が最初に読んだ「シリーズ ケアをひらく」の本であり,他の2冊も「シリーズ ケアをひらく」を知った頃に読んだ本だ。いずれも,私をどこか自由にしてくれるような,そんな本だった。


2.2. キャッチコピーの意味について


 さて,キャッチコピーで言われる,「科学性」「専門性」「主体性」といったことばだけでは語り切れない地点とは,どのような地点だろうか。こうした概念の外側には何があるのだろうか。少し考えてみよう。


 まず,「科学性」ということばで念頭に置かれているのが自然科学や科学技術だとするならば,その外側にあるのは,哲学や社会学といった人文学であろう。
 ケアは,病いや老い,障害を抱えながら「生きる」ことを支える営みである。それゆえに,そこには医学をはじめとした自然科学のみでは汲みつくせない何かがある。そしてそれは,「人間が生きるとはどのようなことなのか」にまつわる知へと越え出てはじめて,十全に汲み取ることができるような何かである。


 また,「専門性」ということばに対置されるのは「当事者性」だろう。
 例えば医師は専門家として,患者の疾患や障害に関する特権的な知を持っており,患者は,医師の専門知に身を委ねるのが当たり前である。しかし,専門的な概念によって語られてしまうことで,患者(当事者)の経験が型にはめられ,そこにある生きづらさの生(なま)の姿が,当事者自身にすらも見えなくなってしまうことがある。
 ケアは本来,当事者のそうした生(なま)の経験に寄り添えるものでなくてはならない。


 最後に,「主体性」ということばの外には何があるだろうか。
 端的に言うのは難しい。だが少なくとも「主体性」は,近代社会における個人という概念の核をなしているものだ。すなわち,自らの意志で理性的に行為しその責任を引き受けることのできる「主体」であることが,社会の中で一人前として認められるための当たり前の条件なのである。しかし,ケアを必要とする人々,例えば依存症や統合失調症に苦しんでいる人々というのは、むしろ,自らの意志で思うように行為できない存在である。主体性の概念に由来する規範は,そうした人々を抑圧し苦しませる。哲学者の國分功一郎は次のように言う。

おそらく私はそこで依存症の話を詳しくうかがいながら,抽象的な哲学の言葉では知っていた「近代的主体」の諸問題がまさしく生きられている様を目撃したような気がしたのだと思う。「責任」や「意志」を持ち出しても,いや,それらを持ち出すからこそどうにもできなくなっている悩みや苦しみがそこにはあった。
國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』p329(2017年,医学書院)

人間は本当に「主体的」な個人でなくてはならないのだろうか。人間は現実にはもっと弱く,他律的で,依存的な存在なのではないのか。その弱さから出発する生き方は無いのであろうか。
 主体性ということばにとらわれた時に見えなくなってしまう現実の人間の弱さがある。ケアは,まさにそれをまなざし,承認するのでなくてはならない。


 以上のような私の理解は拙いものでしかないだろうが,確かなのは,「科学性」「専門性」「主体性」はもちろん大切なものである一方で,ケアの世界には,「科学性」や「専門性」にこだわったり「主体性」にとらわれたりすることで,見えなくなってしまう何かがあるということだ。
 ケアの本質に真に接近するためには,そうした何かを豊かな仕方で語りに乗せなくてはならない。「シリーズ ケアをひらく」は,このような理念に導かれている。

2.3. 「ケアをひらく」に寄りかかって

 
 「シリーズ ケアをひらく」の本たちは,ケアについての本であると同時に,その存在自体が一つのケアでもあるように思う。
 生きづらさを感じた時,その本たちに触れると私は安心する。その本たちは,生きづらさや窮屈さを感じさせてくる「当たり前」の世界の外に,私たちを連れ出してくれる。その世界が全てではないのだということを,私たちに教えてくれる。そして,強くなくてもいいのだと,弱さとともに生きていけばいいのだと,私たちに寄り添ってくれる。そんな,ぬくもりに満ちた本たちだ。


 私は今後,このシリーズの本たちに今一度寄りかかりながら,ケアについて考えていきたいと思う。感想になるのか書評になるのかまだノープランだが,その本たちの言葉を松葉杖のように使って行う稚拙な思考を,このブログにアウトプットしていきたいと思う。最初に取り扱うつもりなのは,先日読んだ『ケア学 越境するケアへ』(広井良典,2000年,医学書院)という本だ。「シリーズ ケアをひらく」として刊行された記念すべき最初の1冊である。

 そして,そうやって思考を積み上げていく中で,ケアについて語る自分の言葉を少しでも手に入れられたなら——そんな希望を今の私は持っている。ケアの世界に心惹かれるのがどうしてなのか。ケアに惹かれる心の中にぼんやりとある思いの正体が何なのか。自分が何を考えたいのか。どこに向かいたいのか。私はまだ何も知らない。だからまずは,自分の持っている足場に,しっかりと足を乗せてみようと思うのだ。




***Thank you for reading***