深呼吸の時間

ラブライブとか,読書とか

読書記録:広井良典『ケア学 越境するケアへ』

 3月末に上げた記事(「ケア」への関心と「シリーズ ケアをひらく」の話 - 深呼吸の時間)で,読書の記録をつけていきたいということ,特に看護や介護,精神医療など,「ケア」にまつわる読書の記録をつけていきたいということを書いた。
 
 間が空いた(なんと2ヶ月空いた)が今回はその最初として,『ケア学 越境するケアへ』という本を取り上げ,要点を整理し感想(?)を書いてみたいと思う。


 この本は,上記の記事で紹介した「シリーズ ケアをひらく」の最初の1冊として出版された本だ。このシリーズで語られるケアって要するに何なのだろうと疑問に思い,シリーズの原点に触れてみようと考え手に取った次第である。



 まず概要を紹介しておこう。

 本書は2000年に刊行されたやや昔の本である。著者の広井良典氏は,医療政策や社会保障,科学哲学を専門とする研究者で,現在は京都大学こころの未来研究センターの教授をされている。2000年といえば日本に介護保険制度が導入された年であり,本書はそんな,高齢社会に対応した制度の整備が強く求められるようになっていた時期に出版された。

21世紀は「ケア」の時代である,とよくいわれるようになってきた。個々のケアの実践を超えた,あるいはそれを根底で支えてくれるような,「ケアの哲学」とでもいうようなものが必要になっているように感じられる。本書はまさにそうした問題意識から出発するものとなっている。
(本書,p3)

 本書では,ケアの全体的な見取り図を提供する,「ケア学」の試みが展開される。
 ケアは,人間という多面的な存在の全体に関わる営みだ。それゆえにケアは,看護学や医学,社会福祉学,教育学,心理学,哲学,宗教学など,様々な専門分野からアプローチすることができる。しかしそれぞれの分野のみにしばられてしまうと,提供されるケアが本来求められる姿から程遠いものになってしまう恐れがある。そのため,既存の学問の垣根を越えて,ケアのあるべき全体像を探究する学問が求められていると著者は言う。それが「ケア学」である*1


 本書ではケアとは何か,ケアとは何であるべきかという理念的なレベルの考察を基礎としつつ,それに基づいて実際の制度のあるべき姿にまで話が広げられていく。
 本書で触れられる話題はかなり多岐にわたっており,それらを全てカバーすることは不可能なため,この記事では,中でもケアの理念的なレベルの話にフォーカスしていくこととしよう。


1. 要点の整理-ケアとは何であるべきか?


 ここから私なりに,本書の筋だと思われるものを取り出してみたい。

1-1. 帰属するべき場所へとつないでいくものとしてのケア

 
 ケアの本質はどこにあるのか。本書の基本的な主張は次のようなものだ。すなわち「ケアの本質は,孤立した個人を,帰属するべき場所(コミュニティや自然)へとつないでいくという点にある」という主張である。

やや比喩的な表現を用いるならば,個人にとって「コミュニティ」は,またその先にある「自然」は,いわば“故郷”のような存在である。そして,第1章でも述べたように,「ケア」ということの本質は,個人をそうした元々の“帰属していた場所”へと「つないで」いく,という点にあると理解することができる。
(本書,p130)

 人間は,進化とともに自然の外に出て社会(コミュニティ)をつくり,さらに時代の変化とともにコミュニティからも離れ個人としてバラバラに生きるようになった。著者は,職業や制度としてのケアは「家族や共同体から「個人」が独立していく場合に生じる不安や弱さを再び支援するもの」として成立してきたとし,それゆえケアは,個人をコミュニティや自然へとつなぎ直そうとするベクトルを本質的に持っていると語る*2

 なおこの主張を通して著者が意図しているのは,ケアを従来の「ケアする側-される側」という1対1関係の中に閉じ込めて考える考え方を批判することである。著者によれば,ケアの最終的な役割は,他者や自然とのつながりの場を当人に回復させることにあり,援助者と被援助者の二者関係はあくまでそのための入り口に過ぎない。その二者関係の内部で病気の治療や問題の除去がなされるというケアのイメージは不十分なのである。

2,3年ほど前から「コミュニティ」という,それまで私の中で重要な位置を占めていなかったコンセプトがさまざまなところで意味をもつようになり,いまでは逆に1対1モデル――たとえばすぐれた援助者がクライエントを(見事に)「治す」といったイメージ――は,いわば近代主義的な誤った発想であるとさえ思うようになった。
 重要なのは本人がコミュニティ(=ふつうの「生活」)そして自然とのつながりをどうやって持ちうるかであり,援助者はその入り口で導きをするだけだ,というとらえ方である。

(本書,p264)

1-2. ケアの医療モデルから生活モデルへ


 この主張と連動して語られるのが,ケアにまつわる2つの考え方,すなわち「医療モデル」と「生活モデル」だ*3
 医療モデルとは,ケアを医学の枠の内部で考えるものであり,疾患を治癒させることで患者を健康な状態へと戻すことがケアの目標だとする考え方である。
 これに対し生活モデルでは,医療モデルが疾患と捉えるものを「障害」と捉えた上で,それを無理に除去しようとするのではなく,残された機能を積極的に生かす形で生活全体の質を高めていくことを目指す。

 そして,高齢化に伴い日本の社会で見られる疾病の中心が(治療ということが現実的ではない)老人退行性疾患になってきたことで,ケアを考えていくためのベースとしてふさわしいものが,医療モデルから生活モデルへとシフトしたと著者は語る。

 なお本書で念頭に置かれている中心が高齢者ケアであるため,ここからはケアされる側を高齢者として話を進めていこう。

1-3. 生活モデルにおけるケアが目標とするべきもの


 ケアを生活モデルで考えた時,ケアは医療の枠を越えて,さまざまなアプローチが複合的に連携し合うものとなっていく。
 しかしこうしたケアは,複合的な連携を通して,最終的にどこを目指すべきなのか。


 最初に触れた著者の主張は,ここに結び付いてくる。すなわち,生活モデルに根差した複合的なケアが最終的に目指すべきは,当人を帰属するべき場所へとつないでいくことなのである。

 第一に念頭に置かれているのは,人とのつながりの場,コミュニティである。つまり,生活モデルにおけるケアの一つの理想は,あるコミュニティを再構築し,高齢者がコミュニティに参画して能動的に役割を発揮することで,自己の存在感を実感しながら生活できるようにすることである。なお,著者によればそのコミュニティは高齢者だけで切り離されたものであってはならず,老人・大人・子どもの三世代相互のかかわりを含んだものであるべきだという*4
 加えて念頭に置かれているのは,自然や環境である*5。ただ,これに関しては著者の語ることの輪郭がそれほどはっきりしていないため,掘り下げるのは控えておこう。
 
 いずれにせよ,著者が生活モデルにおけるケアにとって本質的だと考えるのは,疾患や障害の除去ではなく,帰属するべき場所の回復,もしくは帰属の実感の回復である。人とのつながり,世代間のつながり,あるいは自然や環境といった,個人を越えた大きなネットワークの中に根を下ろしているという安心感が,人間の生活の質(quality of life)の核心にはあると著者は考えている。そして,当人がまさにこの帰属の実感をたずさえながら生活し,死んでいけるようにすることが,ケアが様々なアプローチを複合的に絡み合わせながら最終的に目指すべきことだというわけである。

人間は,共同体との,あるいは自然とのいわば「通路」ないし「つながり」をもちたいという根源的な欲求をもっている。それをつなぐ役割をするのが「ケア」ということなのではなかろうか。あるいはそうした「(他者との,自然との)つながり」ということ自体が「ケア」なのではないだろうか。
(本書,p32)


 ケアとは何であるべきかということに関する話の大筋は,おおむね以上のようなところである。
 なお,この筋と関連して本書で触れられる話題は,時間論や死生観の話題など,多岐にわたる。また,ここまで見てきたような理念的なレベルの話を基礎として,本書では医療制度と福祉制度の関係性といった具体的な制度設計の話が,海外の制度も引き合いに出しながら展開される。だが,今回はそうしたところまで内容をたどるのは控えておこう。


2. 感想


 ここからは私の感想を述べていこう。

2-1. 批判点

 批判から入るが,「孤立した個人を帰属するべき場所へとつないでいく点にケアの本質がある」と本書で主張されることに関して感じる問題点を2つほど挙げておこう。

 1つ目は,この主張が取り出される過程がいささか抽象的で説得力に欠けるということである。本書でとられる筋道は,「人類の歴史の中で,職業や制度としてのケアは~の役割を担うものとして成立してきた,だからケアの本質は~にある」というものである。しかし,歴史上での役割(何であったか)から本当にそのものの本質(何であるべきか)は導けるのかは怪しい。また,そもそも,その歴史上での役割の考察が典拠に欠ける思弁的なものであることも,読者としては不満なところである。

 2つ目は,この主張に看護や介護の具体的な営みをどう結びつければいいかが明らかではないということである。本書では,ケアの精神的側面や社会的側面を強調するあまり,ケアの生理的・身体的側面が軽視されているように思われる。例えば,高齢者の入浴や排泄を介助するといった営みは,「帰属」の回復ということとどのように関係するのだろうか。コミュニティや自然が関わらない営みは,ケアにとって2次的・非本質的なものだということになるのだろうか。この点が明らかにならない限り,本書の「ケア学」は地に足の着いたものとはならないだろう。

2-2. 本書の主張を裏付けるもの?-当事者研究・オープンダイアローグ


 しかし,だからといって本書の主張そのものが無価値になるわけではないとも思う。
 ひとつ興味深いのは,2000年という古い時期に出版された本書の主張が,精神医療ないしはケアの領域で近年話題になる,当事者研究オープンダイアローグといったアプローチと結びつくように思われることである。


 当事者研究とは,統合失調症などの当事者たちで営まれるグループホーム浦河べてるの家」で始められ2000年代に全国に広まった活動で,当事者が自分の困難(妄想や幻覚など)の性質や対処法を自ら分析し,専門家の言葉ではなく自分自身の言葉で,それを語っていこうとする活動である。

 この活動の大きな特徴は,その共同性にある。
 当事者研究は「研究」として,仲間たちの間での発表などを通して,仲間たちと一緒に行われていく。ここでは,どうしようもなく当人を苦しめるものだったはずの精神疾患や障害が,他者とのつながりの回復のための触媒になっていくのである*6。また,当事者研究は,必ずしも問題の解決や克服を目的とするわけではない*7。自分の抱えている問題を克服しようとするのではなく,それを一歩外から眺め,仲間と一緒になってその問題をわいわい「研究」する。それによって,問題は解決していなくとも,当人は不思議と,生きるのが楽になる。それが当事者研究という活動である。
  

 オープンダイアローグは,フィンランド発祥の精神疾患の治療技法であり,専門家チームと患者本人,家族,地域や職場の関係者らで集まり,フラットな「対話」を繰り返し行っていくというものである*8。必要最低限の薬しか用いずに治療を進められるものとして,ここ数年で日本でも注目され始めている。

 オープンダイアローグにおいて目標となるのは,幻覚や妄想などの患者の症状を取り除くことではなく,対話を根気強く繰り返すことを通して,患者を取り巻く対人ネットワークを再建することである*9。そこには次のような,精神病を対人関係の問題の表れとみる考え方がある。

ここでは,精神病が具体的な対人関係のあり方の問題であること,普通のコミュニケーションの世界から疎外され孤立した状態こそが問題であることが主張されている。脳内のなんらかの変化が対人関係のあり方に表れるのではなく,対人関係の不備それ自体が精神病と呼ばれているということである。
野口裕二『ナラティヴと共同性』,p115)

対話の中で,患者自身を含めその対人ネットワークにかかわる主体それぞれの経験が言葉にされていく。それによって,そのネットワークが変化し再建されていく。そうすると,ある種副産物のように,患者の症状が勝手に和らいでいくのだという。

ただひたすら対話のための対話を続けていく。できれば対話を深めたり広げたりして,とにかく続いていくことを大事にする。そうすると,一種の副産物,“オマケ”として,勝手に変化(≒改善,治癒)が起こってしまう。
斎藤環・水谷緑『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』,p65)*10


 以上2つのアプローチには,本書の「孤立した個人を帰属するべき場所へとつないでいくという点にケアの本質がある」という考えとつながるところがありはしないだろうか。当事者研究とオープンダイアローグに共通しているのは,当事者の抱える問題や症状を改善しようと躍起になることを一旦放棄するということ,そして,そのアプローチを通して当事者がある種の持続的な共同性の中に置き入れられるということであると思う。こうしたアプローチが精神疾患の当事者の生きづらさの解消につながる,言いかえればケアにつながるのだとするならば,それはまさに,ケアというものに,帰属するべき場所の回復ということが本質的に関わっていることを示唆しているのではないだろうか。

2-3. 総括として


 「ケア学」としてケアというものの全体像を考えていく上での指針として,本書の主張は一定以上の価値を持っているように思われる。ここまで見たように,本書の主張は,本書の外の事例によって一定程度裏付けられうるからである*11
 ケアは,「する」ものでも「される」ものでもないのかもしれない。ケアとはある場の中で「起こる」ものであり,職業や制度としてのケアが目指すべきは,そうした,ケアが起こる場へと当事者をつないでいくことなのかもしれない。
 本書で示される考えは,「ケアする側-される側」という二者関係でイメージしがちなケアというものの全体像をより深くとらえ直すための,一つの有効な足場になるのではないかと思う。

 ただ,先に挙げた2つ目の批判点に関しては,私自身は特に言えることが無い。看護や介護の具体的な場面における生理的・身体的な営みとしてのケアと「帰属するべき場所へとつなぐ」ということとがどのように関係しているのか,それを考えるための足場を私は何ら持たない。今後頭の片隅に置いて,ゆっくり考えてみることにしたい。





***Thank you for Reading***

*1:本書,p45f

*2:本書,p130

*3:本書,p35ff

*4:本書,p116ff

*5:本書,p128ff

*6:浦河べてるの家べてるの家の「当事者研究」』2005年,医学書院。p5。

*7:石原孝二他『当事者研究の研究』2013年,医学書院。p30ff。

*8:www.hakuhodofoundation.or.jp

*9:野口裕二,『ナラティヴと共同性 自助グループ当事者研究・オープンダイアローグ』2018年,青土社。p115。

*10:斎藤環・水谷緑,『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』,2021年,医学書院。

*11:もちろん,本書で念頭に置かれている中心が高齢者ケアであるのに対し,当事者研究やオープンダイアローグの出どころが精神疾患に関わるケアだという違いは気を付けなくてはならない。