深呼吸の時間

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読書記録:村上靖彦『在宅無限大 訪問看護師がみた生と死』

 
こんにちは。


今回は,先月読んだ『在宅無限大 訪問看護師がみた生と死』(村上靖彦著,2018年,医学書院)という本を取り上げたい。


ただ,前回試しに読書記録として書いた文章は長かったし堅苦しすぎた(というか前回の本は要約が難しかった)ため,今回はもう少しコンパクトな感じ(※当社比)で書いていけたらなと思う。


本書は,近年広まっている訪問看護(在宅医療)を取り扱ったノンフィクションだ。著者は現象学を専門とする哲学者であり,本書ではそんな著者が,6人の訪問看護師への聞き取り調査を足場に,訪問看護の世界を看護師の経験の内側から描き出していく。



* * *


本書の要点を取り出してみたい。



まず,本書の中心にあるのは次のような考えである。それは,訪問看護師たちは,病院死が主流となった現代にあって,在宅での死を良き死のあり方として再発明しつつある,という考えである。

私たちは,いったんは失われた自宅における看取りを,なにかよいものとして再発見,いやむしろ再発明しつつある。在宅看取りにあたって主役を担っている現代日本訪問看護師は,新たに死を創造しつつあるといえるのだ。(本書,p6)

では,訪問看護が可能にする死や看取りのあり方とは,実際のところいかなるものなのだろうか。



本書において,訪問看護師たちからの聞き取りは,次のような3つの側面にスポットを当てて分析される。すなわち,①患者の快適さを生み出すものとしての訪問看護,②患者の願いを実現するものとしての訪問看護,③病や死をめぐるどうにもならない運命に共に向き合うものとしての訪問看護,この3つである。


それを通して浮き彫りになるのは,訪問看護師たちの持つ,「触媒」としての役割だ。
病院という場は必然的に,重い病や障害,死を,患者の生活から切り離された非日常的なものにする。
それに対して在宅という形態は,そうしたものを,患者の日常生活と連続したものにするとともに,患者と家族の親密な関わり合いの中に置き入れる。そしてそれによって患者や家族は,どうにもならない運命に応答するための,ある種の主体性をも手にしていく。
訪問看護師たちの支援は,このようにして,病や障害,死が患者の人生全体と接続されたものになっていくための,触媒なのである。

日常生活のなかに死を位置づけることは,日本の都市部では在宅医療によるサポートがあってのみ可能になることであろう。つまり患者と家族が看取りをめぐって生活と語りをつくっていくためには,訪問看護師が触媒として支えないといけない。(……)自分が住んでいる場所で自然に死を迎えるとき,人生全体を踏まえて死が成就する。訪問看護師は,自然な形で人生を完成するための支えとなっている。
(本書,p48)


さて,こうした分析を通じて,本書は訪問看護(在宅医療)が可能にする死をいかなるものとして取り出すのだろうか。


死とは,生物学的な死だけに話を限るなら,患者の側と看取る側の間のコンタクトが途絶えるまさにその「瞬間」のことだ。
だが訪問看護は,死という出来事の中に,一つの「プロセス」を引き入れる。それは,その瞬間をどう迎えるか,その瞬間までどう生きたいかを,患者自身や家族,看護師たちで共に,患者の人生を踏まえながら考え,実現していくというプロセスである。訪問看護師たちの支援によって成り立つ在宅医療が,死を,このような一つの共同で生きられるプロセスへと変えるのである。

死にはしかし,コンタクトの断絶とは別の側面,まさに断絶に抗う側面がある。共同の語りのプロセスとして,死にゆく人,家族,看護師によって話し合われ,生きられる行為としての死である。つまり死は,コンタクトの断絶を背景としながら,断絶に抗ってつくり直されるコミュニケーション,という両義性を持つ。(本書,p203,下線筆者)


そして,このプロセスとしての死を,著者はハイデガーによる死の議論と対比してさらに性格づける。

ハイデガーが考えた死は基本的に,一人称単数の「私」の死であった。この私の死と対面する
ことは,他者と共有不可能な孤独なものとされ,また,大勢の人々の中に埋没して生きる日常から脱出することと一体のものとされていた。そして,人はそうやって孤独に死と対面することでこそ,自己の存在を全うする本来的なあり方を獲得するというのがハイデガーの考えであった。

しかし,訪問看護がつくり出す死のあり方は,孤独なものでも,日常と対立するものでもない*1。それはむしろ,共同性と日常性の中で生きられるものである。住み慣れた家の中で,慣れ親しんだ人と共に死と向き合う。訪問看護師たちは,そうすることこそが,死にゆく人を最もその人らしくし,その人を,他の誰でもないその人として人生を全うすることへ導くと考えるのである。

死は日常生活の脱落ではなく,まさに日常世界のなかに位置づけられるときに,自分の死として本来的に死ぬことができる。つまり在宅医療における死はたしかに主体化のプロセスであるが,一人のものではなく日常のなかでの共同のプロセスである。(本書,p213)

本書はこうして,「在宅」ということが,患者の生と死にとっていかに大きな意味を持っているかを明らかにする。患者のその人らしさは,その人一人だけで保たれているのではない。家という場所やともに過ごしてきた人々こそが,その人をその人であらしめているのだ。



* * *


私は,数年前に経験した母方の祖母の死を思い返しながら本書を読んだ。



本書において特に印象的だったのは,「死ぬのに楽しい」という訪問看護師Cさんの語りである。

Cさんは,在宅での看取りを行うと,「死が本来悲しいものじゃない」ことがわかると言う。なぜなら,在宅での死は,自然で穏やかな,死の「本来の姿」だと感ぜられるからである。そこに寂しさはあっても,悲しさは無い。そして死は,生に意味を与え直し,生を輝かせるものともなりうる。Cさんのこうした感覚は,看取りを終えた遺族がCさんに伝える満足感によっても裏打ちされている。



死は,それが自然なものであるならば,必ずしも悲しい出来事ではない。それはまさに,祖母の死の時に私自身感じたことだった。


祖母は認知症で老人ホームに入っていたが,ある時肺炎で入院し,そのまま2日足らずで亡くなった。もともと食欲が無くなってきていて点滴を打つようになっていたそうなので,肺炎にかかろうがかかるまいが,きっとそういう時期だったのだろう。急ではあったが自然な死だった。


亡くなった連絡を受けて祖父母の家に着いた私は,祖母の遺体と対面し,葬式までの数日間をそのまま,両親や叔母,従妹姉妹,そして祖父とともにその家で過ごした。その数日間は,家族皆で祖母のこと,祖母と過ごした時間のことを振り返る数日間になった。
印象に残っているのは,通夜が終わった夜,母が私との会話の中で言っていた言葉だ。祖母の生き方や価値観に昔からずっと抵抗を覚えてきたけれど,今,死の厳粛さの中で,祖母の生をまるまる肯定できた。そんなことを母は言っていた。


本書の訪問看護の事例と違って,死について祖母本人と一緒に何か考えられたわけではない。それでも,上のように祖母の生と死の意味を家族で分かち合った数日間は,ある幸福な時間だったように思う。
本書で言われていたように,死にはコンタクトの断絶とは別の側面,つまり,断絶に抗ってなされる,共同の語りのプロセスとしての側面がある。あの数日間に私が経験したのも,おそらく,まさにそういう共同の語りのプロセスとしての死だったのだろう。
「楽しい」という言葉があてはまるのかはわからない。だが,そこにあったのは,確かに,ただの悲しみとは少し違った感情だった。



死というのは不思議なものだ。全く孤独なもののような気もするけれど,他者と共有されるプロセスにもなりうる。悲しいもののような気もするけれど,そこには幸福もある。本書が浮き彫りにするように,そういう両面性を死は持っている。そしてその両面性にはもしかすると,何か私たち人間存在の秘密が隠されているのかもしれない。

訪問看護師たちは,そんな死の両面性をまなざしながら,死をできうるかぎり自然で幸福なものにしていくために奮闘する。
本書における聞き取りの分析が生き生きと描き出したのは,そんな訪問看護師たちの姿であった。





***Thank you for Reading***

*1:ただし,著者が補足するように,ハイデガーの議論が存在論的な水準のものであるのに対して,訪問看護の話が存在的・経験的な水準のものであることは頭の片隅に置いておく必要がある。