深呼吸の時間

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新卒入社した会社を退職して──「心」を守るための小さな戦いの話

 

 年末、私はそれまで働いていた会社を辞めた。2020年4月に新卒入社して、働いたのは2年弱。その期間は、様々に精神的に苦しい思いをした時間だった。

 きっと私は、それがどのように苦しい時間だったのか、その中でどうもがいたのかを、時が経つにつれて忘れていくことだろう。だから今回、それを忘れ去らぬうちに思い起こし、ここに書き留めておきたいと思う。


 とはいえ、恨みつらみの文章ではない。私は今年の4月から、精神保健福祉士という国家資格を取るために、1年間専門学校に通うことになっている。精神面の障害や病を抱えた人の社会生活をサポートするための資格だ。そうやってこれからいわゆるケアの世界に踏み入っていくにあたって、私は、私自身の持つ苦しみの経験を大切にせねばならぬと思ったのである。


1.会社に入った背景


 このブログで過去に何回か触れてきているが、私には軽度の発達障害がある。ADHDというやつだ。軽度というのは病院で診断名を貰うほどではないということだが、一時期は精神科に通院して服薬しながら過ごしてもいた。

 一口にADHDといってもいろいろである。おそらく自分の場合は、いわゆる不注意優勢型というものにあたる。つまり、注意・関心の方向を然るべき形にコントロールすることが人と比べて苦手で、そのせいで、集中力が持続しない・関心の切り替えができない・タスクの優先順位がつけられない・時間管理ができないといった困りごとがよく生じる。

 こうした困りごとが問題として顕在化したのは、大学院に進学してからのことだった。その時私は、それまでに持っていたあらゆる自信を一度失い、世界のどこに自分の居場所を見出せばいいのかがわからなくなった。ただ、そこからどう一歩を進めたのかは過去に長々と書いたことがあるので、ここでは語るまい。


 さて、私が大学院を出て就職したのは、とある編集プロダクションである。編集プロダクションとは出版社などから依頼を受けて出版物の中身を制作する下請け会社のことだ。私の入った会社は、その中でも教育系を専門とする編集プロダクションであり、主に問題集やテストといった教材を受注・制作していた。

 こうした編集プロダクションに入ったのは、第一には、自分の持つ言葉や文章に対するセンスを活かせる仕事がしたいと思ったからである。大学院で自信を失い、どう生きていくべきかがわからなくなった私にとって希望になったのは、しばしば人から文章力を褒められる機会があったことだった。私はそのことに、この世界の中での居場所を得るための、足場を見出そうとしたのである。そう、私が就職ということを通して欲していたのは居場所であった。私のできることを見てもらえる場所であり、それによって「ここにいていいんだ」と思える場所。そんなささやかな居場所を私は探していた。


2.仕事が合っていなかったということ


 結論を言えば、会社の仕事は私に合っていなかった。


 教材を編集する作業そのものに関して言えば、向いていると感じることもしばしばあった。教材を校閲したり校正したりすれば、私は先輩社員にひけを取らない程度には内容や日本語のおかしな点に気づくことができたし、私が問題を執筆した時には、その原稿に致命的な赤字が入ることは基本的に無かった。私は職人のようにこだわりをもって紙面に向き合うことができた。そういう点から、上司が私に「編集者に向いている」と言ってくれたことも何度かあった。


 しかし、会社の仕事において、上のような職人的な姿勢とともに、あるいはそれ以上に必要だったのは、いわば資本主義的なタスク管理能力であった。

 会社では、それぞれの教科チームの中で、常に膨大な数の教材の制作が同時進行している。制作は様々な細かい工程に分かれており、教材ごとに、クライアントへの納品日などから逆算して立てられたスケジュールのもとで進行管理が行われる。そして、一人の人が同一の教材を何度も見ても見つかる改善点は増えないため、各工程に別々の人が携わり複数人の目を通すことで、最終的に質の担保された制作物をクライアントに納品できるようにしている。

 こうしたシステムの中で仕事をするため、社員の仕事の進め方は必然的に相当なマルチタスクになる。例えば教材Aのある工程を2時間かけて作業したら次は教材Bの別の工程を30分で処理して次の担当者に渡し、その後は教材Cのまた違った工程を2時間で作業し……といった仕事の進め方を、チーム全体のスケジュールに支障が出ないようにしながら行っていかなくてはならない。したがって、社員には、タスクの優先順位を判断し、作業時間を見積もって自分のスケジュールを立て、頭をうまく切り替えながらスケジュール通りにタスクを処理していく能力が求められるわけである。

 こうした秩序立ったタスク管理こそ、ADHDの傾向を持つ私が大きく苦手とすることであった。先述のように、優先順位の判断や頭の切り替え、時間の見積もりといったことが私は不得意なのである。入社2年目にさしかかり、担当するものが増えていくにつれ、私の作業が遅れることで上司やチームの先輩社員に迷惑をかけることが増えていった。


 またそもそも、どの作業をするにも、私は人よりも時間がかかった。集中力が無く注意の方向がブレやすいため、作業が直線的に進まない。加えて、物事を理解したり整理したりすることがゆっくりとしたスピードでしかできない。

 そして不幸なことに、教材制作は様々な制約をクリアしながら内容を考える必要のある、パズルにも似た作業だった。というのも、特定の教科書に共通して記載されている事項しか出題できなかったり、問題間でヒントにならないようにする必要があったり、過去に出題済みのものを出題できなかったり、問題の形式を特定の形式に合わせる必要があったり……教材を作る時にはこうした無数の制約が課されており、その制約の中で、盛り込める問題を考え、組み合わせていかなくてはならないのである。それは普通の文章の執筆とは大きく質を異にした作業だ。こうしたパズル的な思考を要求されることは、物事の整理に時間がかかるという私の特性をネガティブに際立たせることとなった。中でも執筆やそれに類する作業を担当すると、形になるまでに他の社員と比べて法外に時間がかかったり、作業時間の見積もりがまったくできなかったりするのだった。

 

3.私の抱えた苦しさ


 こうした中で、私はどのようなことを思いながら働いていたか。

 もちろん苦しかった。ではその苦しさはどのような苦しさだっただろうか。ここからが本題だ。これをできるだけ解像度の高い形で書き留めておくことが、この文章の目的にほかならない。


 まず私は、自分の発達特性をできる限り隠さなくてはならないと考えていた。タスク管理能力の低さや処理速度の遅さは、入社したばかりであれば大目に見てもらえる。そのうちできるようになっていくだろうと。しかし、それが生まれながらの本質的なものだとしたらどうだろうか。それは、私の仕事への向いていなさが、どうしようもないものだということだ。私は、周囲にそういう認識を持たれてしまうことを極度に恐れていた。そうなったら、せっかく世界の中での居場所を手にしたように思ったのに、ここにいる資格の無い人間だという烙印を押されてしまう。居場所を失ってしまう。それゆえ私は、自分の生来の苦手を、努力や心がけによってなんとか覆い隠さねばならないと考えたのだ。

 そして入社したばかりのころの私は、そうやって自分の力で苦手をカバーすることは「がんばれば」できることだと高をくくっていた。
 

 しかし、そううまくはいかなかった。例えば自分のタスクとスケジュールをきちんとメモし、困った時には相談するように一生懸命心がけているつもりでも、いつしかスケジュールは破綻し、上司やチームに絶えず迷惑をかけてしまうのであった。がんばっているつもりなのに、結局のところ私の苦手はぽろぽろと表に出てきてしまう。そんな時、周囲に迷惑をかける申し訳なさとともに私の心を占領したのは、上で述べたような恐怖だ。ここにいる資格の無い人間という烙印を押される恐怖。理解できないかもしれないが、それは飛躍して、自分はそもそもこの世の中にとって不要な存在なのではないかという恐怖へも通じていくものだった。
 

 また、こうしたこととともに私の精神を蝕んだのは、仕事の成果を測るための「利益率」と「工数」という概念だった。

 利益率とは文字通り、教材の受注金額から制作コストを差し引いた利益がどのくらい出たかを示す数字である。そして、制作コストの多くを占める人件費の計算にかかわるのが工数である。工数とは、ある教材を納品するまでの各工程でかかる作業時間、あるいはその全工程を通しての合計作業時間を意味しており、そして工数1(作業時間1時間)につき××円の人件費がかかるとみなすという数値が社内で決められていた。簡単に言えば、利益率は工数が多ければ下がり、工数が少なければ上がるわけである。

 こうして、各教科チームの仕事の成果は、実質的に「いかに短い作業時間で完了させたか」ということをもとに可視化される。社内では、いいかげんなものを納品するくらいなら時間をかけて高品質なものを納品するべきだということも言われていた。しかし上記のように時間という観点から成果が可視化されるシステムになっている以上、それはどうしても建前的な言葉にとどまってしまう。結局のところ、評価されるのは少ない工数で高い利益率を出したチームなのであった。
 
 既に述べてきているように、私は人と比べてゆっくりとしたスピードでしか物事を処理できない。そんな私が担当した教材は、工数が膨大になるのが常であった。普通は利益率が赤字にならないはずの商品を赤字にしてしまうこともあった。新人ということで大目に見てもらえる部分はあったが、なぜそんなに時間がかかるのか理解ができないという顔をされることもしばしばあった。そして私自身、うまく説明ができなかった。

 私は、まったくできないというわけではない。すぐに立ち止まり、迷い、混乱し、考え込んでしまうが、そうした鈍重で曲がりくねった思考を経てできあがるものは、人と比べて質の低いものではない。そうやって私は今までの人生を生きてきたのである。しかし、そこにある私のせめてもの自尊心を、「時間をかければ良いものができるのは当たり前だから…」という会社の誰かの言葉が洪水のように押し流していく。そして、私が考え込んだりどこかにこだわりを持ったりするごとに、工数は増え、利益率は下がっていく。

 自分の思考はこの仕事において不利益をもたらすものでしかない。私の心は、そんな自己否定意識にいつしか支配されていった。
 

 なお、自分の苦手を自力でカバーしきることが難しいことが見えてきたころ、私は上司に思い切って発達障害のことを少し話してみていた。去年の初春のことだ。自分には生来苦手なことがあるということや、それを自分でカバーできずに悩んでいるということを言葉足らずながらも打ち明けると、上司は落ち着いてその話を聞いてくれ、苦手の改善の仕方を一緒に考えてくれたり、仕事の量を調整することを提案してくれたりした。あれはとてもありがたいことだったと思う。

 しかし残念ながら、それでも問題はぽろぽろと生じ続け、私はチームに迷惑をかけ続けた。皮肉なことだが、上司と相談しながら改善のための取り組みをしようとしたことが、私の精神的なつらさを大きくした部分があったかもしれない。改善しようとしているのに、改善しなければならないのに、なかなか変われない。その中で、自分の「できる」ことよりも「できない」ことの方がますます視界の中心を占めるようになっていった。上司に提出する業務日報に「今日も○○に不当に時間をかけすぎてしまいました」といったようなネガティブなことしか書けなくなっていったのは、その現れである。


 もっと自分の良いところを知ってほしい、そこを見て自分の存在を認めて欲しい、心の底にはそんな思いが強く存在していた。だが、自分の良さが活きていると感じる機会はなかなか無かった。自己否定感ばかりが膨らんでいった。息苦しかった。


4.伝えるという試み、その挫折


 ここからは、去年の夏ごろに私が大きな勇気を出して行った、ある「実験」について書いていきたい。

 それは、上記のような息苦しさから少しでも抜け出したいという思いから行った試みであった。その頃すでに私は、年度いっぱいで会社を辞めて4月から専門学校に通うことを決めていたのだが(そのいきさつについては省略する)、3月までは会社にいるつもりでいた。件の試みは、3月までこの会社で自分の精神をなんとか守らなくてはならぬと考えて行ったものである。

 その「実験」とは、上司以外のチームメンバーにも自分の発達障害のことを伝える、というものである。


 やろうと思ったきっかけがあった。

 それは、私が、上司から任されていたあるとても重要な原稿の執筆に手こずり、並行して抱えていた別の重たい業務とのバランスを取りそこなったことも手伝って、執筆の期限に間に合わせることができなかったという出来事だ。

 私は上司に強く叱られた。その後、自己嫌悪を抱えながらオフィスのトイレに入ると、私の頭をふとある思考がよぎった。

 入社以来今まで必死に、できない自分を否定し、普通の人と同じであろうとしてきた。たくさん無理をして、自分の駄目さを取り繕おうとしてきた。だが、こんなにも無理をしなくてはならないものだろうか?

 ああ、つらいなあ。心の中でそう呟いてみた。すると、ぼろぼろと涙が目から溢れてきた。そうだ、今までこの気持ちを抑圧してきたけれど、つらい。私はつらいのだ。そう思った。

 期限に間に合わせられなかったのは何の言い訳もできないが、バランスを取りそこなった別の重たい業務というのも、私が引き受けるしかなかったものだった。誰かがやらないといけなくて、他の人よりも自分の方が得意そうで、そして他の人がやるとその人が苦しい思いをすることになるから、状況からして私がやらなければならないものだった。必死に頑張っているのに、何もかもが裏目に出ていく。むかむかとした感情も胸に沸き起こってきた。

 私は誰もいないトイレの中で叫んだ。壁を拳で殴りつけた。そしてそのまま、涙を流しながらうずくまり、30分ほどの時間、動けなくなった。


 壊れそうになっていた。その後数日間、私は仕事で気力が出せなくなり、今まで以上に仕事の進みが遅くなった。しばしば何もせずに呆然とするようになった。涙が出てくることもあった。このままではどうしようもない。そう思った私は、在宅勤務だった日の夕方、チャットで上司に「精神的に辛い」と伝えた。私の様子をおかしいと感じていたらしい上司は、私の出社予定だった翌日に面談をすることを提案してくれた。

 面談では、私は自分の精神状態を伝えるとともに、発達障害のことをあらためて説明した。その時私は、上司自身も発達障害について調べたり本を読んだりしてみてくれていたということを知った。上司と私はそのまま、私の業務の量と内容の調整を本格的な「環境調整」として改めて考えていこうということで合意した。

 環境調整とは、発達障害の当事者のつらさを軽減するための基本的な考え方の一つである。環境には仕事内容や人間関係、使用している道具など多様なものが含まれるが、ともかくもそうした環境を調整し、当人と環境との摩擦から生じるストレスを低減するのである。環境調整には当然、周囲の人の理解と協力が不可欠である。


 私はここに至って、考え方を根本的に転換させてみることにした。

 私は今まで、自分一人の力で自分の苦手を何とかしようとしてきた。上司に話してみてはいたけれど、そうすることで探っていたのも、私自身が変化するための方法だった。いずれにしても私は、問題を私個人の中に存在するものとして取り扱おうとしていたという意味では、問題を一人で抱え込んできていたのである。


 余談ながら、障害について考えるための基本的な方向性として、個人モデルと社会モデルというものが世の中では言われている*1。個人モデルは、障害や困りごとを個人の内部に起因するものとして捉え、個人を変化させることによって当人の大変さを取り除こうとする方向性の考え方である。他方社会モデルは、障害や困りごとを、個人の置かれている社会や環境のあり方に起因するものとみなし、社会や環境のあり方を変化させることによって当人の大変さを解消しようとする方向性の考え方である。現在少しずつ世の中に浸透していっている比較的新しい考え方が社会モデルだ。


 上司との面談を通して少し気持ちが落ち着き、上のような知識を踏まえて状況を改めて俯瞰してみたとき、私が思ったのは、もっと周囲に自分の身を委ねる必要があるのかもしれないということだった。いわば個人モデルからの脱出である。これまで、自分の苦手が生来のものであることを隠して何とか人並みに振る舞おうとしてきたし、それができると信じていた。しかし、それには明らかな限界があった。私個人ではなく、環境の側に何かしらの変化が起きてくれなければどうしようも無かった。私の苦手が引き起こす諸問題は、私個人の中で抱え込まれたものから、私と周囲の人たち皆で協力して取り組まれる「チームの問題」へと変化させられる必要がある。そう思った。いや、そうなって欲しい。もう私は、他の人と同じようにできるようにならねばならないという呪縛のもとで一人もがくことに、疲れきってしまっていたのだった。

 上司と「環境調整」を合意したことは、そのための大きな一歩である。だが、上司以外のチームメンバーは、私の発達障害のことを知らず、私の業務量と業務内容の調整が環境調整という意味を持っていることを認識していない。私は、環境調整という意味をこのタイミングでチーム全員の共通認識にしておきたいと感じた。

 というのも、第一に、上司も私も何が環境調整の正解なのかを知らないからだ。すなわち業務量と業務内容の調整は暫定的なものであり、引き続き試行錯誤は繰り返されることになる。その中で、問題が2人だけの間で閉じられたものになっていたままでは、上司の心理的・物理的負担が大きくなり、結局問題が個人的に抱え込まれるという様相は本質的に変化しないような気がした。

 また、第二に、私は周囲からのあたたかい眼差しがほしかった。きっと周囲の目には、私は仕事ができないみじめな後輩としてしか映っていないことだろう。でも私にもちゃんと長所があるはずで、それを発揮したくてもがき苦しんでいるのだ。そのことを知ってほしかった。環境調整を行っていく中で、私の苦しさと試行錯誤に寄り添ってくれる仲間になって欲しかった。

 こうして私は、環境調整という意味を共通認識にするために行動することを、つまり、他のチームメンバーにも発達障害のことを伝えることを決意したのであった。これまで抱え込んできた状況を変えるための、私の手札にある最大のカードだった。


 大きな勇気が必要だった。今まで隠そうとしてきたものを明るみへと差し出すのだ。強い人間のフリを辞め、自分の弱さをどうしようもないものとして宣言するのだ。今までそれを阻んできたのは、ここにいる資格の無い人間という烙印を押されることへの恐怖である。今や私はその恐怖を乗り越えなくてはならない。居場所を真につくるために、他者の善意を信じて、自らを開示しなければならない。

 私に勇気をくれたのは、私の将来向かう場所がケアの世界だという事実だった。私は精神保健福祉士として、自分と同じような苦しみを抱える人の居場所をつくるために戦っていくのだ。今自分が自分のために戦っておかなくてどうする。そう思った。自分の中の恐怖を乗り越えて、目の前の他者と対話すること。それが自分が手に入れておかなくてはならない「強さ」であるような気がした。
 

 私の配属されていた教科チームは5人のチームであり、上司と私の他に3人の先輩がいた。落ち着いて話がしたかったため、一人ずつお願いし、1対1で話す時間を作ってもらった。


 難しいのは、何をどのように話すのかということだった。ADHDがどのような障害なのか、自分の場合はどのような症状があり、それによってどのような問題が生じてきていたのか、話すのはもちろんそういった内容だ。しかし、それを話して私はどうしたいのだろう。チームの先輩たちにどうしてほしいのだろう。それが自分の中でもやもやとしたまま、まとまらなかった。

 失敗を大目に見てほしいというつもりではない。発達障害を免罪符として使いたいわけではない。同じ対等な社員として、失敗は失敗としてきちんと引き受けなくてはならない。では、私のために何かを具体的にしてもらいたいのだろうか。確かに、こういう配慮をしてくれると助かる、といったことをいくつか伝えて話をまとめることは考えられた。だが、その正解がわからないから今まで抱え込んできたのだとも言えるし、それ以上に、そうすることは私の気持ちとは少しずれているような気がした。

 というのも、私の気持ちの中心にあったのは、自分の「心」を単に知ってほしい、わかってほしいという思いだったからだ。つまり、てきぱきとタスクをこなせる人間が良しとされる環境下では見えなくされてしまう、私なりの物の感じ方が作り出す世界があるんだということを、ただただ知ってほしかったのである。それは、周囲の配慮といった具体的改善方法を考えるのとは別の、もっと手前の事柄にほかならない。私は、そこを通り過ぎてしまうような語り方をしたくなかった。

 しかし、ただ知ってもらうってどういうことなのだろう。それにいったい何の意味があるというのだろう。間違いなく意味があるような気はしていたが、もし誰かにそれを問われたならば、私はうまく答えられない。やはり、一人の社会人として、具体的にどのような配慮をしてもらいたいかという話へとまとめ上げた上で話をするべきなのだろうか。再びそうも思った。でも私は、そういうふうに強い個人であろうとすることからもう降りたいのである。ずっと押し隠してきた自分の気持ちに、私は素直に寄り添いたかった。


 迷った末に私が選んだのは、自分の気持ちに素直になり、説明を次のような言葉でしめくくって相手の反応を待つことだった。
「ちゃんと知っておいてもらった方が少しだけ安心して働くことができるなと思って、こうしてお話することにしたんです」
どういう配慮が欲しいかは話の流れの中で伝えることにしよう。精神的に壊れそうになっていた私にとってより本質的なのは、「心」を──つまり私の物語と世界を──知ってもらうことだ。



* * *


 3人の先輩に話した反応は少しずつ違った。ここに書いておきたいのは、Oさんという女性の先輩に話した時の様子である。そして、それを通して私が抱いた失望についてである。

 Oさんは私の2年前に新卒入社した人で、私の入社当初、チーム内で私の教育係ということになっていた先輩である。てきぱきと物事をこなす人で、気さくな性格なこともあり周囲からは信頼されていた。なお私が大学院卒で留年もしているため、年齢はOさんの方が年下になる。

 知ってほしいという私の気持ちは、実のところ、3人の先輩の中でも特にOさんに対するものだった。


 私はこのOさんに対して強い苦手意識を持っていた。彼女はしばしば私の至らない部分、例えばタスクの抜け漏れや作業時間の見積もりなどについてご指摘をくださるのだが、なぜか、そうやって私と話すときまったくといっていいほど目を合わせてくれなかった。また、私が受注金額の低い仕事でこだわったり悩んだりして時間がかかっていると、「すべての仕事にこだわりを持とうとするのはやめてください」とお叱りをいただくことが何度かあった。こうしたことが塵のように積み重なる中で、私はいつしかOさんに萎縮するようになっていた。Oさんは私の人間性を受け入れてくれていない。そんな印象があった。

 悪い人だというわけではない。Oさんの側としても、私に対してやりにくい部分があったのだろう。仕事ができない年上の(しかもやたら高学歴な)後輩。向こうからすれば得体の知れない存在だ。そんな私に対して教育係の役割を果たそうとする中で、どうしても硬くなってしまうところはあったに違いない。

 問題があるのはきちんと仕事ができない私の方だ。そう頭では思っていた。嫌いになりたいわけでもなかった。だが、私は仕事上どうしても必要な時以外はOさんに話しかけることができなくなっていた。さらに、彼女はチーム内での雑談の中心にいることが多い人だったため、私はチーム内での雑談にもうまく加われなくなっていた。Oさんに萎縮してしまう自分をどうにかする必要がある。かねてから私はそう思っていた。

 つまり、Oさんに向き合い自分を開示することは、私にとって最も勇気のいることであり、それと同時に、安心できる居場所を切り拓くために最も必要なことなのであった。


 だが、私の思いは挫かれることとなった。

 こちらが閉ざしていた心を開き、話したいという意志をきちんと見せれば、Oさんも丁寧にうなずきながら話を聞いてくれるのではないか。私はそんな甘い期待を抱いていた。

 しかし彼女は、私が話をしている間、目線を落としたまま一度も私の目を見ることがなかったのだ。簡単なレジュメのようなものを渡してそれをもとに喋ったため、それを見ていたというのもあるだろう。しかし、正面に座った私が意識的に彼女の顔を見ながら話していたにもかかわらず、彼女は一度も目を合わせようとしなかった。うなずくことすらほとんどなかった。怖くて、悲しかった。不安な思いから半ば声を震わせながら話していた私は、聴き手の反応の薄さのために次第にしどろもどろになっていき、声もますますか細くなっていった。

 そして、私が用意していた説明を何とか終えたところに返ってきたOさんの言葉は、私をさらに悲しくさせるものだった。
「いろいろ大変なんだろうとは思うんですけど、こちらとしては何をしてほしいのかを言ってもらわないと困ります」
なるほどもっともな言葉である。同時にそれは、Oさんの私へのスタンスがにじみ出ている言葉でもあった。

 私を傷つけたのは、Oさんが、「大変なんだろうと思う」という共感の言葉に「けど」という逆接の接続詞をつなげることで、それをただの枕詞にして流したことである。その共感の言葉は形だけのものだった。ほんの少し言葉の使い方が違っていれば、私の気持ちは異なったものになっていたに違いない。例えば「それは大変なんですね。そしたら・・・・、私たちにはどうしてもらいたいですか?」といったように。敏感すぎるだろうか。しかしそれは大きな違いである。おそらく無意識なのであろう彼女のその言葉づかいは、共感するというよりも、私を強く突き放すものであった。

 「知っておいてもらえると安心できる」という言葉とともに発達障害のことを伝えた私の思いは、Oさんには届かなかった。彼女が私の目を見てくれなかったことと共感の言葉が形だけのものだったことは、無関係ではない。目の前で一人の後輩が声を震わせながら自分の最もデリケートな部分を開示しようとしているのに、どうして上のような態度でいられるのだろう。私の感覚では理解が難しいのだが、いずれにせよ、彼女は私に向き合ってはくれなかった。この人は私の「心」を見ようとはしてくれないのだ。そう思った。

 こうして、私が最大のカードを切った結果として手にしたのは失望だった。全員にこのような反応をされたわけではない。しかし、Oさんの反応は私の心を折るに十分だった。


 知ってほしい──。私はただ、チームの中で、自分の「心」の居場所を与えてもらいたかったのである。だが最後に私が行き着いたのは一つの悲しい思いだった。きっと結局のところ自分の「心」はここでは居場所を持てないのだろう、と。

 馬鹿馬鹿しさを覚えた。年度末までの残り半年弱、みじめな後輩で居続けなければならない。その中で、自分の精神を一人守っていかなければならない。途方もなく長いトンネルであるように思えた。もしかしたら、今回伝えたことをきっかけに、長い時間をかけて何かが変化していくのかもしれない。だが、もはや息苦しい思いをしながらその時間を過ごすことに意味があるとは思えなかった。


 もう十分戦っただろう。逃げよう。こうして私は、年度末を待たずに会社を辞めることを決心したのであった。


5.総括として


 以上が、私の経験した会社での苦しみともがきの大筋である。ここまでかなり長々と書いてきたが、これを総括した時にどのようなことが言えるだろうか。将来的に精神保健福祉士として人を支援する活動に従事する人間として、最後に少し考えてみたい。


 私のとった考え方や行動にはきっと、多くの不正解があったことだろう。しかしその前に間違いなく言えるのは、当事者としての私が、会社の中であまりにも孤立無援だったということである。

 私は、自分の発達特性をどうマネジメントするか、どう周囲に伝えるかをすべて自分で考え、何が正解かわからないまま試さなくてはならなかった。上司が相談相手になってくれたのはとても幸福なことであったが、上司とて私の持っている自己理解以上の理解を持っていたわけではない。実のところ上司の考えた「環境調整」の内容は必ずしも私の心情に合致しているわけではなかったし、上司の言葉によってつらい気持ちになったことも何度もあった。そんな時、そうした自分の感覚にどこまでの権利が認められるのか、どのように自己主張をしたらいいのか、私はわからなかった。いかなる時も、一方には私が、他方には会社のすべての人がいて、後者にただ一人で戦いを挑んでいるような、そんな心細さがあった。また、そんな状況を転換させたいと勇気を奮い起こしたのも、それに挫けて失望したのも、すべて一人でのことだった。

 とはいえ私は、会社の外に逃げ場を持っていたという意味では恵まれていた。心理的面で言えば、私の人間性を理解していて、会社での出来事を話すと一緒に怒ってくれる友人がいた。経済的面で言えば、両親を経済的に頼ることで会社を辞めるという選択肢を持つことができた。また、会社の外には自分が行きたいと思える世界があった。だから私は希望を失わずにいることができた。もしこれがそうでなかったら、私は精神的にどうなっていたかわからない。


 私のようないびつな者を受け入れるための土壌が、私のいた会社には根本的に欠けていたのだろう。

 ただし、それは誰か個人の責任というわけでもないのだと思う。それはシステムの問題であり環境の問題であり、そういう個人を超えた全体的なものが、抗いようもなく皆を縛っているのだ。利益率を上げなければならない、タスク管理能力に優れていなければならない、そうした規範をもたらす資本主義的なシステムの内部で、なんとか私のいびつさを受容する形を探ろうとしてくれたのが上司だった。また、Oさんとて、自分を守るために、そうした規範になんとか自分を溶け込ませるしかなかったのかもしれなかった。それと引き換えに抱えることになった精神的な苦しさがOさんの中に無かったとも限らない。誰かが悪意を持っているわけではない。きっとそれぞれが、システムという不気味なものに縛り付けられ、そこから何かをこうむっている。そして私は結局のところ、それに圧し潰されたのである。

 そうした環境が根本的に変化するのは、たやすいことではない。ではどうすればいいのだろう。私のごとくいびつさを抱えた個人は、差し当たり、個人を超えたシステムとそれに結び付いた価値観のもとで、苦しみ続けるしかないのだろうか。そうして最後には居られなくなるに至るしかないのだろうか。

 そういうわけでもないはずだ。システムそのものを変容させるのは難しくとも、きっと、その中でできる小さな戦いがあるはずだ。「心」を守るための小さな戦いが。しかし私が身をもって知ったのは、それは当事者一人では決してできないということだった。その小さな戦いが孤立無援な戦いであるかぎり、それは必ず挫折してしまうのである。



* * *


 会社での苦しみともがきの経験は、これからケアの世界に入っていく私にとって、大切な原体験となることだろう。


 私は、小さな戦いをする誰かを支える者になりたいと思う。


 今の私は無力である。私に必要なものは何だろうか。私は、自分にはもっと言葉が必要だと感じる。

 「知っておいてもらえると安心できる」 私はあの場で、そういう言葉でしか自分の思いを伝えられなかった。だが、ただ知ってほしい、私がそう思ったのはなぜなのだろう。ただ知ってもらうことが、状況をどう改善するかを話すことよりも大切なことのように感じたのは、どうしてなのだろう。もしそれを捉えることのできる言葉を自分が持っていたならば、私はOさんの前であれほどの無力感を覚えずに済んだかもしれない。もっと力強く自分の「心」の居場所を切り拓けたかもしれない。

 私は、誰かの「心」の居場所をつくれる者にならなければいけない。そしてそのための最も根本的な武器は、言葉だ。繊細でしなやかな言葉だ。言葉は、見えない思いや違和感に輪郭を与え、支配的な価値観からやってくる声をはねのけることを可能にする。


 個人を超えた支配的な価値観というものがある。それは、組織や社会のシステムを形作るとともに、私たちの中に浸透して「人間はこうあるべきだ」と絶えず告げる、内なる声となっている。

 しかし問うてみよう。それは本当に間違いのないものだろうか、と。その声はむしろ何かを排除し、見えなくしてしまっているのではなかろうか、と。誰かの「心」をかき消してしまっているのではないか、と。

 「心」を守ろうとする小さな戦い。それは、この私たちの内なる声に抗う戦いに他ならない。そうして、支配的な価値観のもとでたやすく見えなくされてしまうような思いを、物語を、世界を、見えなくされぬように守る戦いに他ならない。

 私はそんな戦いを、苦しみを抱えた人たちとともに、そのかたわらで行っていきたいのである。



***Thank you for reading***

*1:私の説明は適当なので、下記を参照すべし。 www.carefit.org