昔、ある男がいた。
男には因縁の曲があった。その曲の名を「コットンキャンディえいえいおー!」という。
よっしゃよっしゃワッショイ! よっしゃよっしゃワッショイ!
よっしゃよっしゃワッショイ! よっしゃよっしゃワッショイ!
この男の中で「コットンキャンディえいえいおー!」は、難しい立ち位置の曲となっていた。
男はルビィ推しであった。しかし、我々の間で大人気なこの曲のMVに、彼は強めの苦手意識を持っていたのである。
男が最初にMVを見たのは、ルビィ誕に沼津巡りをしていた時であった*1。自分の好きな黒澤ルビィはこのMVの中にいない──彼がMVを見て抱いたのはそういう印象である。そして、このMVで界隈が大盛り上がりしている状況の中で、彼は、自分の彼女への「好き」がかき消されるかのような不安を覚えた。
その後、男はMVを遠ざけるようになり、MVのイメージを想起してしまうことから、やがて曲そのものも積極的には聴かなくなっていった。
それから幾ばくかの月日が流れた。時間の作用によりMVへの拒否感は薄らいでいきつつも、男は思っていた。いつかライブでMVをバックにこの曲が披露される日が来るだろう。その時自分はこの曲とMVにどう向き合えばいいのだろうか──。
よっしゃよっしゃワッショイ! よっしゃよっしゃワッショイ!
よっしゃよっしゃワッショイ! よっしゃよっしゃワッショイ!
Aqours 6th LoveLive! ~KU-RU-KU-RU Rock 'n' Roll TOUR~ <SUNNY STAGE>の時のことだ。
男が現地参加することになっていたのはDay2であった。メットライフドーム改めベルーナドーム。行き慣れた会場に向かうこの男に、前日のセトリは、一つの事実を明確に告げてきていた。そう、「コットンキャンディえいえいおー!」との対決の時が迫っているという事実を。
前日のセトリには、2年生組とダイヤの、1stソロコンサートアルバムのソロ曲が含まれていたからである。
どう向き合うべきであろうか。電車の中で男は考えていた。ただ全身で受け止めるしかない。彼は思った。
男は黒澤ルビィを演じる降幡愛のことが好きであった。そして彼女がパフォーマンスする黒澤ルビィの曲に間違いはないということも、経験から知っていた。ならば男にとって、彼女を信じる以外に選択肢は無かった。
かつて、男がトロッコに乗った降幡愛の歌う「RED GEM WINK」を聴いたのは、まさにこのメットライフドームである。嗚呼、彼がこれと同じ場所で「コットンキャンディえいえいおー!」と対決することになるのは、どこか運命的ではあるまいか。
よっしゃよっしゃワッショイ! よっしゃよっしゃワッショイ!
よっしゃよっしゃワッショイ! よっしゃよっしゃワッショイ!
Day2が開演し、「その時」は思いのほか早く、男のもとに訪れた。
2年生が歌う「少女以上の恋がしたい」が終わると、メインステージに誰かが立っている。真横に近い角度の1塁側スタンド席から男が目をこらすと、その人物のシルエットは「RED GEM WINK」を想起させた。
発声禁止の会場にどよめきが広がる。照明が付く。モニターに“黒澤ルビィ”が映し出される。
嗚呼、ついにやってきたのだ。
「みなさん、お待たせしました!お待たせしすぎたかもしれません!ついに、ついに歌います!ラブ&ピース!黒澤ルビィで、コットンキャンディえい!えい!おー!」
男は降幡愛のかけ声に合わせ、ピンクに光らせたブレードを頭上に力の限り突き出した。対戦よろしくお願いします──この言葉は、まさにこの瞬間のこの男のために神が用意したもうたに違いない。
真横に近い角度から見るステージ、肉眼では状況は致命的に把握しづらく、モニターすらも斜めからで見づらい。男は懸命にAメロのパフォーマンスを見守った。
その時、降幡愛を映しているモニターの片隅に、木馬の如きものを運ぶ一つの人影が映った。スタッフであろうか。
いや違う。おねえちゃである。
おねえちゃ。
嗚呼──。
男は知った。おのれの小ささを。
男は知った。おのが思考の無意味さを。
妹を背後から見守るおねえちゃ。小道具を渡し、そして片付けるおねえちゃ。妹の隣で踊るおねえちゃ。いつしかオタクの姿となり、ステージ上段へと妹を追いかけていくおねえちゃ──。
見たことのないものがそこにあった。そこにあったのは黒澤姉妹の深淵であり、ラブ&ピースであった。そしてそれを覗き込んだ男もまた、深淵となった。
よっしゃよっしゃワッショイ! よっしゃよっしゃワッショイ!
よっしゃよっしゃワッショイ! よっしゃよっしゃワッショイ!
「破壊力」とは言い得て妙である。それはまさに破壊的なものであった。それが破壊したのは、「コットンキャンディえいえいおー!」にこの男が抱いていた複雑な感情にほかならない。
翻弄され、笑い、そうした中で男の胸には、あるあたたかい感情が生まれていた。
彼は、この曲を好きだと思った。
しかし彼がそう思うことができたのは、ただこのパフォーマンスが面白かったからだけではない。この「コットンキャンディえいえいおー!」は、MVを忠実に再現したものであるとともに、黒澤姉妹の一つの幸福の形を表現したものであった。男がこの曲を好きだと思うことができた理由を、我々はそこに見出さねばならぬ。
友よ、考えてみてほしい。黒澤ルビィの幸福とは何であろうか。
「コットンキャンディえいえいおー!」は、黒澤ルビィの「大好き」を表現する全力のアイドルソングである。そこに表れているのは、彼女自身にとっての、理想の、憧れの自分の姿であろう。
だがその「大好き」や「憧れ」は、彼女一人の中だけで形作られたものであったろうか。それはむしろ、姉とともに育った時間の中でこそ形作られたものなのではないか。
「ルビィは花陽ちゃんかなー」
「わたくしは断然エリーチカ!生徒会長でスクールアイドル、クールですわ~」
(『ラブライブ!サンシャイン‼』TVアニメ1期第4話より)
そう、ルビィの大好きなもの、大好きなこと、その原点には、姉という一人の他者の存在がある。友よ、このことを我々は深く噛みしめなければならぬであろう。
無論彼女の世界を形作る他者は姉だけではない。国木田花丸や津島善子、あるいは鹿角理亞がいる世界の中で過ごす時間もまた黒澤ルビィを形作っている。むしろそうやって姉のいない世界を大きくしていくことが、成長するということなのかもしれない。
しかしやはり、黒澤ルビィの世界の根幹には、どうしようもなく姉がいるのである。それゆえに黒澤ルビィの幸福は、単に理想のアイドルとして自分を実現するというよりも、きっと、姉に見守ってもらいながらそうすることの内にこそあるのだろう。姉が見守ってくれていることはルビィにとって、自らの物語の全面的肯定を意味するに違いない。
これは姉にとっても同様である。妹を支え見守ること。そこには黒澤ダイヤの幸福がある。それはまさしく、ルビィの傍らに立つおねえちゃのあの穏やかな微笑みが物語る通りである。
嗚呼、黒澤姉妹である。黒澤姉妹、なのである。
単なるギャグではなかった。ルビィのステージをおねえちゃが実現していく──この「コットンキャンディえいえいおー!」は、まさに黒澤姉妹の幸福の形の表現であり、あるいは黒澤姉妹の物語の表現なのであった。男がそれをどこかあたたかいと感じた理由は、そこにあるのであろう。
とはいえ、本当はここまで難しく言葉を重ねる必要はないのだ。この男が感じた魅力を我々はもっと単純な言葉で言い表すことができる。
幸せそうな黒澤姉妹がめっちゃ可愛い──友よ、これが全てなのではあるまいか。
嗚呼、こうして、この日「コットンキャンディえいえいおー!」は、男の因縁の曲ではなくなったのである。彼がベルーナドームで見た「コットンキャンディえいえいおー!」の中には、友よ、彼の好きな黒澤ルビィが、確かにいたからである。
よっしゃよっしゃワッショイ! よっしゃよっしゃワッショイ!
よっしゃよっしゃワッショイ! よっしゃよっしゃワッショイ!
この日逢田梨香子はMCで「曲も成長していく」と言った。そう、我々がよく知っているように、曲はライブを通して成長していく。なぜか。それは、曲というものが物語をまとった存在だからだ。
曲を聴けば、あの日あの場所でその曲を聴いた光景が蘇る。あるいは別の日別の場所で聴いた光景が蘇る。そうやって曲は時と時をつなぎ、物語をつくりだす。そして、今ここで聴いている光景もまた、その曲がまとう物語の一部となっていく。
フランスの哲学者ベルクソンは、次のようなことを言っている。バラの匂いを嗅いで幼き日の思い出が蘇るとき、それはその匂いによって思い出が呼び起こされているのではない、と。むしろ我々はその匂いそのものの中に思い出を嗅いでいるのだ、と*2。
我々が一つの曲を経験する仕方も同じであろう。我々は曲そのものの中に、思い出を、物語を聴く。そしてライブで歌われるごとに、曲の中に聴こえる思い出は積み重なり物語が変化していく。
男にとっての「コットンキャンディえいえいおー!」もまた、物語をまとっている。
男はこの曲の中に、MVが公開されたあの日、黒澤ルビィのことを思いながら座り込んだ、狩野川のほとりの思い出を聴く。そしてこれからは、楽しく笑いながらピンクのブレードを振った、このベルーナドームの思い出を聴くことであろう。MVに悩んだ思い出も、ベルーナドームで笑った思い出も、この曲のまとう物語のかけがえのない一部である。
嗚呼友よ、こうして男の耳に聴こえる物語の中には、この男が黒澤ルビィを好きだという証が、はっきりと刻み込まれているのである。
よっしゃよっしゃワッショイ! よっしゃよっしゃワッショイ!
大好きだけのお祭りはじまったっ!!!
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