今日の昼間は、浦河べてるの家の「第30回べてるまつり」(オンライン開催)をZOOMで見ていた。
浦河べてるの家は、北海道浦河町にある、当事者研究で有名な社会福祉法人。僕が精神保健福祉の領域、広く言えばケアの世界に興味を抱くようになった原点の一つである。
べてるまつりが毎年開催されていることは知っていたが、参加するのは今回が初めて。精神保健福祉士を目指している今年こそ、本でしか知らなかったべてるの空気に直接(オンラインだけど)触れてみようと思ったのだ。
ちなみに参加費3800円(ちょっと高い笑)。
スマホを見ながら結構ぼけーっと見てたのだけど、おもしろかったし楽しかった。雰囲気が明るくて、見ていて自然と笑顔になる。
劇団ぱぴぷぺぽやら何やらいろいろゆるふわなのだが、個人的に好きだったのが、休憩時間に流れるべてるの商品のCMの中の、「ふのり」のCM。
ふのりの入った味噌汁を飲んでいるメンバーさんに別のメンバーさんが話しかけて、「それ美味しそうですね!」「へー、べてるで買えるんですか、僕も買ってみます!」みたいな会話がものすごい棒読みで繰り広げられるのだけど、味噌汁を飲んでるメンバーさんの手がめちゃふるえてる。振戦なんだと思うけど、それがありながらも当たり前にCMに出演しているというそのおおらかな雰囲気が良いなあと思った。
良かったことを全部書こうとすると疲れちゃうので、午前中の「世界ヒアリングボイシズサミット」についてだけ書いておこう。
この「サミット」では、幻聴にまつわる海外の活動が紹介され、茂木健一郎や熊谷晋一郎を交えての対談が行われた。
ヒアリングボイシズというのは、海外(どこだっけ)で広まっている運動の名前らしい。他の人に聴こえない声が聴こえるという経験を、異常な病気としてではなくもっとニュートラルな、普通のこととして捉えていこう、みたいな取り組み。
なんでも、統合失調症の診断を受けていなくとも“聴こえる”経験を持つ人は実は意外といるのだそう。「聴声は健常の人々にも見られる。聴声自体が精神障害のサインではない」というのをエビデンスに基づいて主張するところにヒアリングボイシズの足場がある。
印象的だったのは、ヒアリングボイスの訳語「聴声」と日本で当たり前に使われる「幻聴」という言葉との違いの話。
「幻聴」という言葉の中にはじめから「その声が聴こえるのはおかしい」という価値判断が入っている。だから幻聴という言葉を使った時点で、それは無くさなくてはならないものだという方向付けがなされる。バイステックのソーシャルワークの原則には「非審判的態度」というものがあるけれど、要は幻聴という言葉は明らかに審判的なのだ。
では、“声”が聴こえていてはダメなのだろうか。べてるの家で幻聴を「幻聴さん」と呼ぶのも幻聴という表現に暗黙裡に入り込んでいる価値判断への抵抗であるが、「聴声」は、もっとラディカルにそこから脱却しようとする表現なのだと言える。「聴声」という言葉は、“声”と共存して生きていくという道をより積極的に許容するのだ。
サミット内で紹介されたスピーチの動画が心に響いたのでのっけておく。
字幕ONで見てね。
また、対談の中では、熊谷晋一郎が「聴声」にもっとポジティブな意味を与えようとしていた。ちゃんと書くのはめんどいので、Twitterの下書きにうろ覚えでメモったもののスクショを貼っておこう。
なんだかわかるようなわからないようなという感じだが、でもおもしろい。
ヒアリングボイシズサミットに限らず、べてるまつりの全体から感じたのは、健康が良くて病気は悪いという二項対立をあの手この手で解体・転倒させようとしているのがべてるなのだ、ということだ。
幻覚妄想の世界がいかに豊かな世界か。病気の弱さがいかに人と人とをつなげるか。
脱構築だ、と思った。最近千葉雅也の『現代思想入門』を読んでいるせいで、脱構築という言葉がよく頭にちらつく。脱構築とは、既存の二項対立的なものの捉え方を解体し、新たに組み直していく思考のプロセスのことだ。
べてるのあのゆるふわさと明るさは、実はものすごく尖った、ダイナミックな形でのセルフ・アドボカシーなのかもしれない。
精神保健福祉に従事する者には、既存の二項対立をまさに脱構築していく思考が求められると思う。生きづらい人々の居場所を作り、社会を変えていくための力は、そういう思考によって生み出されるのではないか。
というか僕はそういう思考をしながらケアをする者でありたいし、そういう思考の中にこそ、おもしろみを感じる。
僕にとってべてるはそのモデルである。もちろん、崇拝はしないようにしたい。関連施設での事件もあったし、批判の目を忘れてはならない。だけど、ああこれだから精神保健福祉の世界に飛び込みたいと思ったんだと、そうべてるまつりを見ながら思った。
ちなみに名物の幻覚妄想大会は11月12日に動画を配信するとのこと。楽しみ。