おとといの夜、楠木ともりさんの優木せつ菜役の降板の発表があった。
エーラス・ダンロス症候群という難病なのだという。病気の内容を調べたら衝撃的だった。
そこから一日、いろんなことを考えた。
楠木さんにとって、この病名の宣告は、いったいどういう経験なのだろう。せつ菜の役を降りるというのは、いったいどういう意味を持った決断なのだろう──。
僕は今、学校で精神障害について学んでいる。
先日、ある授業の中で、フロイトの「喪の作業」という言葉が出てきた。死別のような重大な喪失体験をした人がその喪失を受容し回復していくまでの、長い長い心理的プロセスを意味する言葉だ。
その説明の中で、先生が僕たち生徒に問いかけた。「精神障害者に特有の喪失体験があるんだけど、何だかわかる?」と。少し間を置いて先生は言った。「それは『発病』だよね。それは本人にとって、『自分自身』を喪う体験なんだよ。だからその受容には長い時間が必要なんだよね」と。
難病はあえて区分するなら身体障害であり、もちろん精神障害ではない。でも、降板の知らせを受けて、僕の中で、先生の上の言葉が思い出された。
胸が痛む。楠木さんにとって、この難病の発症は、まさに人生における決定的な喪失の体験であるはずだ。
優木せつ菜の役を降りるだけではない。もうこれから一生、これまでのようにステージで踊ることはできない。
いや、病気が奪ったのは、きっと、彼女がこれまでその中を当たり前に生きてきた人生の物語だ。
楠木さんの胸中を想像する一方で、僕は優木せつ菜にも思いを馳せる。
「好きなこと 私だって ここに見つけたんだ 力いっぱい 頑張れるよ 本当の自分だから」
「MELODY」の歌い出しの歌詞だ。かつて苦しかった時期、この歌に現れているせつ菜のあり方に憧れて、その憧れが僕の心を支えた。そんなことを今思い出す。
ここのところ僕は虹ヶ咲をあまりきちんと追えていなかった。でも、僕は間違いなくせつ菜というキャラクターが好きで、せつ菜の歌が好きだ。
そんなせつ菜の存在は、楠木ともりさんあってこそのものだと思う。楠木ともりさんの声が、せつ菜の魅力を作っているのだと思う。
このせつ菜の声がなくなる──。
せつ菜というキャラクターが消えるわけじゃない。けれど、僕の好きな優木せつ菜はやっぱり消えてしまう。そう感じる。
代役がどうなるかとか、そういう話じゃない。
確かな喪失が、眼前に待ち構えている。それが寂しい。たまらなく、寂しい。
でも、こうやって胸を痛め、寂しさを覚えつつも、僕たちには一つ、きちんとわかっておかなくてはならないことがあると思う。
この降板は悲しいことだろうか。
いや、もちろん悲しい。悲しくて、とても苦しい。
だが、僕たちに与えられている選択肢は、そういう見方をすることだけだろうか。
せつ菜役からの降板は、楠木ともりさん自身の意志だ。
それを選んだのは、自分の愛するせつ菜にステージ上でちゃんと眩しく輝いていてほしいからだ。せつ菜という存在を、中途半端にしないためだ。
そして同時に、そうすることで楠木さんは、病気になった自分を受け止め、それと向き合おうとしているんじゃないかと思う。せつ菜をきちんと「喪失」することは、今の楠木さんにとって必要な、とても大切なことなんだと思う。
だから、それは前向きなことなのだ。
苦しい決断で、だからこそ、それはすごく、ものすごく、前向きな決断なのだ。
こんなふうにぐるぐると考えた。
本人の胸中を想像して苦しくなった。せつ菜のことを思って寂しくなった。
だけど、せつ菜役を「降りる」ということの中にある前向きさ、強さ。一番大切なものは、きっと、そこにあるんじゃないだろうか。
だから、同じ一人の人間として、僕は楠木ともりさんのこの選択を応援したい。
そんなふうに強く思う。