1. はじめに
こんにちは。
前回の記事(セカイ系を選びとるということ――『天気の子』はセカイ系なのかについての考察 - 瞬間を閉じ込められるのかなん。)に引き続き、今回も新海誠監督の最新作『天気の子』について語っていこうと思う。今回は、われらがヒロイン、天野陽菜さんの話をしたい。
※今回もネタバレに一切配慮していないので、『天気の子』を見ていない人はまず見に行ってから読んでください。また、もう見た人はこの記事を読んだ後でもう一回見に行ってください。
陽菜さんは、にこにこと明るい、しっかり者の少女だ。しかし、陽菜さんが消えたあとになって帆高がようやく気づいたのは、気丈に振る舞う彼女の胸の内に、彼女が言葉にする以上のものがあったということだった。
彼女はどんな思いを抱えながら生きていたのだろうか。そして帆高との出会いは、陽菜さんの生きる世界をどのように変えたのだろうか。本記事ではそんなことを考えてみたい。
今回は足掛かりとして一つのアイテムに注目する。それは、陽菜さんが首に巻いているチョーカーである。
煌く青い石が印象的なこのチョーカーは、陽菜さんが帆高とともに地上に戻ってきた際に千切れてしまうことをはじめとして、何やら意味ありげに描写されている。だが、セリフなどを通じて明示的に触れられることは一切なかった。このチョーカーは一体何なのか。『天気の子』を見た多くの人が気になったことだろう。
※ちなみに小説版ではチョーカーについて一言も触れられていなかった。
私は、陽菜さんの首に巻かれたこのチョーカーに、言葉にされない陽菜さんの内面が示されているのではないかと思っている。あらかじめ言ってしまうなら、それは、陽菜さんの抱える「心細さ」である。本記事では、チョーカーについての描写を読み解くことを通じて、陽菜さんのそんな内面を掘り下げてみようと思う。
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- 1. はじめに
- 2. 母親の形見としてのチョーカー
- 3. なぜ陽菜さんはチョーカーを身につけ続けるようになったのか
- 4. チョーカーが千切れたことは何を象徴しているのか
- 5. おわりに――母親との別れの物語としての『天気の子』
2. 母親の形見としてのチョーカー
最初に確認したいのは、陽菜さんは最初から最後までチョーカーを身につけているわけではないということである。
確かに、帆高に風俗店(?)のスカウトから助け出されて以降、帆高とともに空から戻ってくるまで、陽菜さんは(なんと入浴中ですらも)ずっとチョーカーを身につけている。しかし次のことに我々は注意しなくてはならない。
第一に、冒頭のシーンでは、チョーカーは陽菜さんの首にではなく、病院のベッドで眠る陽菜さんの母親の腕にブレスレットのようにして付いているということ。
第二に、その後陽菜さんが帆高と初対面するマクドナルドのシーンでは、陽菜さんはまだチョーカーを身につけていないということ。
そして第三に、陽菜さんが帆高とともに地上に戻ってきた際にチョーカーは千切れ、ラストシーンに登場した陽菜さんはチョーカーをもう身につけていないということ。
この3つである。それぞれの点について順に考えていこう。
まず、第一点目から明確に推測できるのは、陽菜さんのチョーカーは「母親の形見」だということである。陽菜さんの母親にとって具体的にどういう意味を持つものだったのかはわからないが、少なくとも病院のベッドの上でも身につける程度には、母親にとって大切なものだったのだろう。それゆえきっと陽菜さんにとってもそのチョーカーは何か大きな意味を持っており、彼女は単なるファッション以上のものとして、それを身につけているはずである。 このようにチョーカーが母親の形見だということが、本記事で述べていくことの大前提となる。
これを踏まえ、ここから二点目と三点目について考えていこう。すなわち、陽菜さんが母親の形見であるこのチョーカーを途中から身につけ続けるようになったのはなぜだろうか。そして、帆高とともに地上に戻ってきたことでチョーカーが千切れたということは何を象徴しているのだろうか。
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- 1. はじめに
- 2. 母親の形見としてのチョーカー
- 3. なぜ陽菜さんはチョーカーを身につけ続けるようになったのか
- 4. チョーカーが千切れたことは何を象徴しているのか
- 5. おわりに――母親との別れの物語としての『天気の子』
3. なぜ陽菜さんはチョーカーを身につけ続けるようになったのか
二点目の話に入ろう。帆高とマクドナルドで初めて出会った時には陽菜さんはチョーカーをしていなかった。彼女がその後チョーカーを身につけ続けるようになったのはなぜだろうか。
もちろんひとつの解釈の可能性として、単にマクドナルドの制服を着る時はチョーカーを外さなくてはならなかっただけだということはありうる。だが、そういう「世の中の習慣的に普通外すでしょ」というリアリティをつけるための描写だとしたら、入浴中だって外していないとおかしい。
そこで、本記事ではこれとは違う解釈をとりたい。それは、陽菜さんがチョーカーを身につけるようになったことの裏に、彼女の心理的状態の変化があるのではないかという解釈だ。
このことを考えるために、帆高と出会う以前の陽菜さんについて少し想像してみよう。
陽菜さんは、15歳(誕生日前だと14歳?)の少女として真っ当にモラトリアムを生きる権利を、つまりは、子どもで居続ける権利を、貧困と親の死という環境のために奪われてしまった少女だ。弟と二人で暮らしていくために学校に行かずにアルバイトをせざるを得なくなり、しかも高校生だと身分を偽らざるを得なかった。学校に通っていないのだから、もしかすると友達もいないのかもしれない。
そんな陽菜さんに、他の誰でもない「天野陽菜」個人として承認される機会はどれだけあっただろうか。アルバイトとして他の人にもできる役割をこなしてなんとか金を稼ぐだけの日々は、彼女を他の誰でもない「天野陽菜」として肯定しただろうか。モラトリアムの世界の中に住まうことも許されず、かといって社会という大人たちの世界の中に、他の誰でもない「天野陽菜」としての居場所があるわけでもない。母親を喪ったこの少女は、このように、固有名を持った人間としての居場所を世界の中のどこにも持てないままに、日々を取り敢えず生き抜かなくてはならなくなったのではないだろうか。
おそらくこれが、帆高と出会う以前の陽菜さんである。
世界の中に「天野陽菜」の居場所は無いんだという感覚が、心細さが、陽菜さんの中には巣食っていたに違いない。
彼女が母親の形見のチョーカーを身につけるようになったのは、自分ひとりではそれに耐えきれなくなったからなのではないだろうか。
マクドナルドでバイトをしていた頃はまだ大丈夫だったのかもしれない。しかし年齢がバレてバイトをクビになり、彼女は、世界の中に「天野陽菜」の居場所など無いんだということを突きつけられたように感じたのだろう。陽菜さんの抱えていた心細さは、きっとこの時、彼女の心を押しつぶしかけていたのであろう。もちろん弟の凪は陽菜さんを陽菜さんとして承認してくれる存在である。しかし陽菜さんは、姉として、自分の抱える心細さを弟に見せることができなかったのかもしれない。
そんな中で陽菜さんが心の支えとしてすがったものこそ、おそらくあのチョーカーだったのだ。母親が生前大切にしていたチョーカー。それは、陽菜さんに母親のぬくもりを思い出させる。そして重要なのは、その思い出は同時に「天野陽菜」に対する承認の記憶でもあるということだ。陽菜さんの母親がどんな人物だったのか、陽菜さんや凪とどのように過ごしたのか、劇中からはうかがい知ることができない。だがきっと彼女は陽菜さんに数えきれないほど「陽菜」と呼びかけたことだろう。その呼びかけは、陽菜さんが「天野陽菜」という他の誰でもない一人の人間として世界の中に存在することへの無条件の肯定であったはずだ。母親の形見のチョーカーは、そんな承認の記憶を陽菜さんの中に呼び起こす。だから陽菜さんにとってチョーカーは、自分を拒絶してくるように思える世界に立ち向かうためのささやかな勇気を与えてくれるものだったに違いない。
モラトリアムの世界の中に住むことも許されず、社会という大人たちの世界の中に他の誰でもない「天野陽菜」としての居場所があるわけでもない。きっと、肥大化するその心細さに抗い続けるために、陽菜さんは、母親の形見であるあのチョーカーを身につけ続けるようになったのだ。
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- 1. はじめに
- 2. 母親の形見としてのチョーカー
- 3. なぜ陽菜さんはチョーカーを身につけ続けるようになったのか
- 4. チョーカーが千切れたことは何を象徴しているのか
- 5. おわりに――母親との別れの物語としての『天気の子』
4. チョーカーが千切れたことは何を象徴しているのか
先に確認した三点目の話に移りたい。二点目を以上のように解釈することが許されるならば、帆高と共に空から地上に戻ってきたことで陽菜さんのチョーカーが千切れたことに込められた意味も、おのずと見えてくるだろう。
すなわちあの描写は、陽菜さんが母親による承認の記憶という心の支えをもう必要としなくなったことを、象徴しているのである。
しかし、なぜそこに至るまでチョーカーは外れなかったのだろうか。帆高という素敵な「ビジネスパートナー」とただ出会っただけでは駄目だったのだろうか。
花火に照らされる六本木ヒルズの屋上で、陽菜さんは帆高に言う。
「私ね、自分にも役割のようなものがあるんだって、やっとわかった」
「だから、ありがとう、帆高」
※セリフはうろ覚え。小説版から引用しようかとも思ったが微妙に違うのでやめた。
陽菜さんが晴れ女の仕事を通じて得たと思ったもの、それは、お金である以上に、自分の「役割」であった。天気を晴れにすることを通じて、自分はたくさんの人の心を晴れにできる。そしてそれは自分にしかできない仕事だ。こうして陽菜さんは、他の誰でもない「天野陽菜」の居場所を世界の中に見つけたように思ったのだ。
だから、世界に入り込めなかった少女は、それを教えてくれた帆高に「ありがとう」と言った。自分が抱えていた心細さを悟られないように、彼をからかいながら。
※そんな陽菜さんのことが愛おしくて愛おしくてたまらない…
しかし結局、晴れ女の仕事が陽菜さんに突きつけたのは、残酷な事実だった。
狂った天気をもとに戻すためには、自分が世界から消えなくてはいけない。確かに、天気を晴れにして人々の心を晴れにすることが、自分に与えられた役割ではあった。しかしそれは、自分が存在することによって果たされる役割ではなく、自分がいなくなることによって果たされる役割だったのだ。
もし役割を果たすことによって人は存在を承認されるのだとするなら、天野陽菜の存在が承認されるためには、天野陽菜は消えなくてはならない。帆高が見つけてくれたと思った「役割」は、そんなジレンマの中へと、少しずつ陽菜さんを追い込んでいったのである。
たとえ「晴れ女」のような唯一無二の役割であっても、「役割」というものを通して世界から与えられる承認は不安定であり続ける。その役割を果たすことに耐えられなくなったなら、承認は失われてしまうからである。きっと、晴れ女の仕事によって世界の中での居場所を見つけたと思いながらも、陽菜さんの抱えていた心細さは残り続けていたのだ。
他の誰でもない「天野陽菜」としての居場所を世界の中のどこにも持てないままに、目の前の日々を生き抜かなくてはならなかった少女。彼女に本当に必要だったのは、きっと、晴れ女のような「役割」ではなく、「役割」とは全く違う仕方で世界の中に居場所を与えてくれる何かだったのだ。帆高と過ごしながらも彼女は、そんな「何か」をあのチョーカーに――存在を承認してくれた母親の記憶に――求め続けたのである。
※そんな陽菜さんが好きだ…
帆高とともに空から戻ってきたことでチョーカーが千切れたのは、そんな「何か」を陽菜さんが新しく手に入れたことで、チョーカーが役目を終えたからに他ならない。
その新しい「何か」とは、空へとたどり着いた帆高の叫びである。「陽菜!」という力強い呼び声である。それは、他の誰でもない「天野陽菜」が世界の中に存在することに対する、無条件の――「役割」など度外視した――肯定である。まさにその呼び声が耳に届いた時、雲の上で透明になって消えていこうとしていた陽菜さんの体と心は、色を取り戻したのだ。
雲の上の世界は、お彼岸、つまりあの世だ。そこは母親の魂が還っていった場所であり、陽菜さんにとっては、暖かな憧憬の対象であった。だから、亡き人の形見にすがる限り、彼女が雲の上の世界へと吸い寄せられていくのはある種の必然だったのかもしれない。
真にこの世界の中で生きていくためには、陽菜さんは亡き母親による承認の記憶という心の支えから、自分を解き放たなくてはならなかったのだろう。しかしそのためには、ともに地上で抗い続ける誰かの呼び声が必要だった。だから、雲の上まで追いかけてきた帆高の「陽菜!」という叫びによってようやく、彼女は母親と「お別れ」をすることができたのである。
チョーカーが千切れたことは、きっと、この「お別れ」の象徴なのだ。
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- 1. はじめに
- 2. 母親の形見としてのチョーカー
- 3. なぜ陽菜さんはチョーカーを身につけ続けるようになったのか
- 4. チョーカーが千切れたことは何を象徴しているのか
- 5. おわりに――母親との別れの物語としての『天気の子』
5. おわりに――母親との別れの物語としての『天気の子』
ここまで、陽菜さんのチョーカーが母親の形見だということから出発し、チョーカーの描写を足掛かりに陽菜さんの内面を掘り下げてきた。陽菜さんはいつも快活に振る舞い、笑顔を絶やすことがない。しかし彼女は心の奥底に、ある絶望的な心細さを抱えている。ここまで見てきたように、彼女が決して口にはしないそれを、チョーカーは我々に物語ってくれている。
『天気の子』は、様々な側面を持っている。ある観点から見ればそれはセカイ系的なラブストーリーであるように見えるかもしれないし、また別の観点から見ればそれは帆高という少年が「大人になること」に抗う物語である。そして同時に、須賀や夏美といった帆高の周りの「大人」たちの葛藤の物語でもある。
しかし本記事のようにチョーカーというアイテムに注目することで浮き出てくるのは、『天気の子』のまた違った側面である。
チョーカーという母親の形見は、陽菜さんにとっては、世界に居場所を持てない心細さに抗いながら生きていくための支えだった。しかし、本当に地上の世界で生きていけるようになるためには、彼女はこの母親の形見から解き放たれなくてはならなかった。「お別れ」をしなくてはならなかった。『天気の子』を天野陽菜の物語として見るならば、死へと向かう母親を見守る場面から紡がれ始めたその物語は、まさにこの「お別れ」に至るための物語だったと言えるのではないか。
一人の少女が、帆高という少年との出会いによって、喪失を乗り越えていく。この作品は、そんな過程を描いた作品でもあるのだ。
ああ……陽菜さん……好きだ……。
***Thank you for reading***
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