MOMENT ICHIKING

ラブライブデイズ、指にキラリ。

鞠莉ママとの対決は新生Aqoursにとっていかなる意味を持っていたのか?

 

 

1. はじめに

ラブライブ!サンシャイン‼ The School Idol Movie  Over the Rainbow』は、新生Aqoursの小さな第一歩目を描く物語です。


新しいAqoursってなんだろう——。

千歌やルビィ達6人は、6人でAqoursを続けるということがどういうことなのかまだわかっていませんでした。でも、イタリアへの旅を経た6人には、世界が少しだけ違って見えるようになります。今の自分たちの中や周りにあるたくさんの「宝物」が、6人の目に映るようになったのでした。

 

劇場版のイタリアパートを牽引したのは、小原鞠莉と鞠莉ママとの物語でした。千歌やルビィ達6人は図らずも、イタリアで鞠莉達とともに鞠莉ママと対決することになります。

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では、イタリアで鞠莉ママと対決したことは、千歌やルビィ達6人の変化にどのように関係しているのでしょうか。

 

「でも、気持ちはずっとここにある。鞠莉の気持ちも、ダイヤの気持ちも、私の気持ちも、ずっと」
※セリフは基本的にうろ覚えです。
イタリアで果南が千歌の胸を指さして言うこのセリフはもちろん重要です。でもこのセリフだけが6人の変化の要因の全てではないでしょう。大事なのはむしろ、千歌への果南の言葉を裏付けるような何らかの「実感」をイタリアでの経験を通して6人が共有したということなのではないかと思います。では彼女らはなぜその実感を得たのでしょうか。

本記事で考えるのは、6人が鞠莉ママと対決したこと彼女らの得た「実感」との関わりです。

  

はじめは私は、鞠莉と鞠莉ママとの物語が描かれることは、千歌やルビィたち新生Aqoursの物語を主軸とする今作においてそれほど必然性がないように思いました。

まあ必然性が無いなら無いで別にいいのですが、複数回映画を観るうちに、鞠莉と鞠莉ママの物語新生Aqoursの物語はきっとこうつながっているんだろうという考えが生まれてきたので、記事にしておこうと思った次第です。

 

2. 鞠莉と鞠莉ママの物語

まず、劇場版で描かれる鞠莉と鞠莉ママとの物語はどのようなものだったのでしょうか。

 

ラブライブ!で優勝したAqours。しかし彼女らには叶わなかったもうひとつの夢がありました。それは浦の星女学院を廃校から救うという夢。

そのために最も尽力したのが鞠莉でした。

彼女は学校を救うために留学先から帰国し、理事長に就任するとともに再びスクールアイドルを始めました。海外での卒業の資格という自分の将来を保証してくれるものを投げ捨ててまで、彼女は果南やダイヤとともに過ごした場所を守りたいという想いを優先して浦の星に戻ったのです。

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でも彼女は、その夢を叶えることができませんでした。

Aqoursがあがいてあがいてあがきまくった日々。その報われなさが、小原鞠莉というキャラクターには凝縮されています。

 

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「くだらない。スクールアイドルなどというものをやって、一体何の得があったというのですか?」

留学を投げ出した目的が果たせなかったことから、鞠莉ママは鞠莉がスクールアイドルとして過ごした日々を「くだらない」ものと断定します。

わが娘はなんて愚かなことをしたのだろう。娘の将来の安泰を願う鞠莉ママの目に、きっと鞠莉の行動はそう映ったのでしょう。娘は自分の将来の可能性を捨ててしまっただけになった、と。スクールアイドルなどというお遊びをやって、将来につながらない無価値な日々を過ごしただけだった、と。

だから鞠莉ママには、鞠莉の自由は鞠莉に人生の選択を誤らせるものでしかないように思えたし、果南とダイヤは悪い友人でしかないように思えたに違いありません。そして、娘の将来の安泰のためには結局自分が用意した道の上を歩ませるのが一番だと考えたのでしょう。

 

でも鞠莉は自分を連れていこうとする母親の目をまっすぐ見ながら言います。
「スクールアイドルは、くだらなくなんかない!」と。

 

その言葉と眼差しに、鞠莉ママは気付きはじめたのでしょう。

わが娘が、もはや世話の焼ける子どもではなく、ひとりの人間へと育ったのだということに。

鞠莉の腕をつかむ果南やダイヤと過ごした日々が、そしてその背後に並んで自分を睨んでいる6人と過ごした日々が、自らの価値観をもって自分と相対する一人の人間へとわが娘を育てたのだということに。

浦女に戻って過ごした日々はそれだけでもう「くだらない」ものなどではなかったということに。

 

スペイン広場でAqoursが行ったライブが、鞠莉ママにそれを確かめさせることになりました。

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鞠莉は正しい道から外れたのでは決してなく、鞠莉自身の道を歩んでいるだけなのだ。自分が用意した道など鞠莉の人生にはもう必要ないのだ。

Aqoursの仲間とともにステージの無いところにステージを作り出し、外国の見知らぬ人々を沸かせる鞠莉の輝きを見て鞠莉ママは、そのことを実感したのでしょう。

 

ライブを終え、鞠莉は鞠莉ママに言います。

「ママやパパが私を育ててくれたように、ここにいるAqoursやみんなが私を育てたの。何一つ手放すことなんてできない。これが今の私なの」

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この言葉を聞き、鞠莉ママは去っていきました。おそらく、娘の成長に対する喜びと少しの寂しさを胸に抱えながら。

 

3. 鞠莉にとっての問題は何だったのか

鞠莉と鞠莉ママの対立と和解の核心がどこにあったのかを考えてみましょう。

 

鞠莉ママが鞠莉に浴びせた「くだらない」という言葉は、浦女でスクールアイドルとして過ごした日々が持つ意味を否定しようとする言葉です。

この言葉の背後にあるのは、その日々が持つ意味を、どのような実績を達成したかということから判断しようとする視点です。鞠莉は浦女を存続させるという目的を達成できませんでした。この視点に立つ限り、鞠莉が海外での卒業の資格を捨ててまで浦女でスクールアイドルをした日々は、無意味な「くだらない」ものでしかありません。

 

「でもラブライブでは優勝した」と鞠莉は主張しました。確かに、鞠莉にとっては、ラブライブで優勝することは、死にゆく浦の星女学院の名前をラブライブの歴史に刻み付けるという大きな意味を持っていました。

ですが、鞠莉ママにとっては、ラブライブ優勝という実績は、浦女でスクールアイドルをした日々が持つ意味を肯定する根拠にはなりません。スクールアイドルというものそのものの価値を疑っている鞠莉ママにとっては、スクールアイドルの大会で優勝したという実績に、鞠莉の自己満足以上の価値をそもそも見出せないからです。

 

鞠莉がこれまで自由に過ごしてきた日々の持つ意味を以上のようにして否定的に見ていることが、鞠莉ママが鞠莉から自由を奪おうとしている理由です。それゆえ、鞠莉が母親に自分の自由を認めてもらうには、これまでの日々の持つ意味を母親に肯定してもらわなくてはなりません。

ただしラブライブ優勝という結果は鞠莉ママの目には自己満足としか映りません。

だから、鞠莉がここで直面している問題は、自分がスクールアイドルとして過ごしてきた日々が持つ意味を、ラブライブ優勝という実績に頼らない仕方で母親に認めさせるにはどうすればいいかという問題です。

 

鞠莉たちは、ライブをするという方法を選びます。そこにある意図はおそらく非常にシンプルです。それは、ライブをすることで今のありのままの自分の輝きを母親に見てもらうということ

今の自分は昔よりも大きくなったという確信がおそらく鞠莉の中にはありました。そして、自分を大きくしたのは浦女で仲間たちとスクールアイドルをした日々だという確信も。

スクールアイドルをやって、何の得があったのか――?

たとえ目に見える実績によって価値が与えられなくとも、これまで過ごしてきた日々は今のありのままの自分を形作るものとして否定しようのない意味を持っている。

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ライブを見てもらうことで鞠莉はそんな答えを母親に伝えようとしたのでした。

 

 

結果として、鞠莉ママは鞠莉に自由を認め、引き下がることになりました。それは、鞠莉が伝えようとしたことを理解したからです。

鞠莉ママは、娘がれっきとした一人の人間へと成長しているということに気付き、そして、スクールアイドルとして過ごした日々が今の娘を形作っているのだということを理解しました。

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そうして、娘の成長に喜びを感じる一人の母親として、鞠莉ママは鞠莉が自由に過ごしてきた日々に確かな意味があるということを認めざるを得なくなったのです。

 

 

3. 新生Aqours6人の問題と鞠莉の問題との関係

それでは、千歌やルビィ達6人が抱えていた問題に、鞠莉と鞠莉ママの対立に巻き込まれたことはどのように作用したのでしょうか?

 

鞠莉の仲間として一緒に鞠莉ママに立ち向かうことで、6人は、鞠莉の直面している問題を共有し、鞠莉ママの問いかけに対する鞠莉の答えを共有することになります。

重要なのは、鞠莉の直面している問題が6人の抱えている問題と重なるものだということです。

 

新しい学校でのライブに失敗したことで、6人は、これまでの9人のAqoursとこれからの6人のAqoursが違うものだということを突きつけられました。

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そこから6人の中にわき起こる、6人でAqoursを続けていくとはどういうことなのか、という問い。

それは、裏返せば、浦の星女学院で9人のAqoursとして過ごしたこれまでの日々はどのような意味を持っているのか、という問いに他なりません。

 

なお、この問いに答えようとする際に、ラブライブ優勝という実績は助けになりません。この実績が9人のAqoursの実績である以上、この実績が6人のAqoursにとって持つ意味がそもそも、上の問いが解決したあとでしか分からないからです。

 

9人のAqoursとしてのこれまでの日々は新しい6人のAqoursにとっては意味を持たないと考えるべきなのだろう。新しいスタートがまた“0”からのスタートになると思い込み不安になっている彼女らは、そう感じています。

彼女らが不安から脱するためには、浦の星女学院で9人のAqoursとして過ごしたこれまでの日々が持っている意味を、ラブライブ優勝という実績からではなく、これからの新しい6人のAqoursにとっての意味という観点から肯定的に理解する必要があるのです。

 

ところで、鞠莉の直面している問題は、浦の星女学院でスクールアイドルとして過ごした日々が「くだらなくなんかない」ということを、ラブライブ優勝という実績に頼ることなく鞠莉ママに理解させるにはどうするかという問題でした。

 

このように比較することで言えるのは、鞠莉が問われているのも6人が問われているのもどちらも、まさしく、「浦の星女学院スクールアイドルAqours」として9人で過ごしたこれまでの日々が持つ意味に他ならないということです。

れを鞠莉は鞠莉ママに対して答えようとしており、6人は自分たち自身に対して答えようとしているのです。

ここに、鞠莉と鞠莉ママの物語千歌やルビィ達6人の物語との結節点があります。

 

「ママやパパが私を育ててくれたように、ここにいるAqoursやみんなが私を育てたの。何一つ手放すことなんてできない。これが今の私なの」

ライブで今のありのままの自分の輝きを鞠莉ママに見てもらうこと。それによって鞠莉が鞠莉ママに伝えようとした答えは、浦女でスクールアイドルとして過ごした日々が今の自分を形作っているんだ、というものでした。

きっと千歌やルビィたち6人は、鞠莉が鞠莉ママに伝えようとした事柄を、イタリアでライブを3年生とともに計画し実行する中で、自分たち自身でも実感していったのでしょう。

 

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成長した自分たちの輝きを実感し、そんな今の自分たちを形作っているのは9人のAqoursとして過ごしてきた日々なのだということを実感したのでしょう。

 

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そしてそんな実感がそのまま、6人の抱えている問題の答えにもつながっていきます。

 

 

以上のように考えると、イタリアで3年生と会って話したというだけでなく、やはり鞠莉とともに鞠莉ママと対決したことこそが、千歌やルビィ達6人にとって決定的に重要だったのだと言えます。

シナリオ上の役割から言うなら、鞠莉が浦女で過ごしてきた日々の意味を理解しない鞠莉ママという人物は、「浦の星女学院スクールアイドルAqours」として9人で過ごしてきた日々が持つ意味を上手く掴めずにいる千歌たち自身を、〈千歌たちの外部の他者〉という形で具現化した存在のようにも思えます。

だから、鞠莉ママに対して「スクールアイドルは、くだらなくなんかない!」と抵抗し、浦女での日々の意味を理解してもらおうとするプロセスは、千歌やルビィ達6人にとっては、自問自答のプロセスそのものだったのです。

 

 

「ルビィね、向こうでお姉ちゃんたちとライブをやってわかったんだ。お姉ちゃんたちは、いなくなったりなんかしないんだって」

イタリアから沼津に帰ってきても、6人で新しいAqoursを始めるという状況に変わりはありません。変わったのは、千歌やルビィ達の自己認識です。

今の自分たちは、決して空っぽではない。浦の星女学院で9人でAqoursをやった日々の中で得てきたものの全てが、今の自分たちを作り上げているものとして、自分たちの中でキラキラと息づいている。そしてそれは絶対に消えはしない。

鞠莉ママと対決していく中で得た実感が、このような自己認識を彼女らにもたらしたのです。

 

そんな自己認識の変化は、彼女らの目をどんどん開いていきます。彼女らがこれまでの日々の中で得てきた「宝物」は、思ったよりもずっと多いのでした。

浦女の生徒たちが新生Aqoursのライブを一緒に作り上げようとしてくれている。

6人それぞれが音楽や衣装やダンスの勉強をして向上しようとしつづけている。

浦女の生徒との絆も、6人それぞれが持つ「すごさ」も、イタリアへ行く前からあったものにすぎません。ですが6人は、イタリアで3年生とともに鞠莉ママに立ち向かった経験を通してようやくそれらにも気が付いたのでした。

 

4. おわりに

千歌やルビィ達6人は、イタリアで図らずも小原鞠莉と鞠莉ママの対立に巻き込まれることになりました。そのことは、6人の変化にどのように関係しているのでしょうか。それを本記事では考えてきました。

イタリアで、千歌やルビィ達6人は、「浦の星女学院スクールアイドルAqours」として9人で過ごしてきた日々の持っている意味を、鞠莉と一緒になって鞠莉ママに示しました。きっとそれが同時に、自分たち自身でその日々が持っている意味を実感することにもつながり、「その日々の中で得てきたものの全てが今の自分たちの中に息づいている」という自己認識を6人にもたらしたのでしょう。このように言えると思います。

 

私が初見でそういう印象を持ったように、鞠莉と鞠莉ママの物語が描かれることは、一見すると、新生Aqoursの物語を主軸とする今作において、それほど必然性が無いように思えるかもしれません。

しかし、本記事で確認したことからすると、イタリアパートで鞠莉と鞠莉ママの物語と交わることによってこそ、千歌やルビィたち新生Aqoursの物語は動き始めたのです。その意味で、鞠莉と鞠莉ママの物語は、新生Aqoursの物語の中での不可欠な役割を持っていると言えるでしょう。

 

浦女を守るために最も奮闘した人物である小原鞠莉は、浦の星女学院スクールアイドルAqoursの報われなさを体現する存在です。だからこそ、その日々が自分にとってどんな意味を持っているのかということをその日々の結果とは無関係な仕方で語るのに、彼女は最もふさわしい。

そんな鞠莉だから、彼女を中心にした物語が、千歌やルビィ達6人に答えを出すきっかけを与えるものとして今作で描かれたのではないでしょうか。