深呼吸の時間

ラブライブとか 読書とか

ハートの磁石を握って

1.はじめに

こんにちは。

 

今回は、『ラブライブ!サンシャイン‼』にまつわる少し長い自分語りをしたい。

 

それは、私の「夢のカタチ」についての話だ。*1

 

私には夢があった。現在私は大学院の修士課程に所属してとある人文学系の学問を専攻しているのだが、私の夢は、そこから博士課程に進学して研究者になることだった。

これまでそんな夢を支えてくれていたのが、『ラブライブ!サンシャイン‼』だった。

Aqours5thライブの直前に書いた下の記事でも語ったことだが、私は大学院で自分の様々な「できなさ」と直面して、一度この夢を諦めようとした。しかし、Aqours3rdライブツアーが、研究者を目指して「0」を「1」にする闘いをもう一度してみたいと、私に思わせたのだった。

ichikingnoblog.hatenablog.com

でも私は今、この夢のカタチを捨てることにした。先月、就職が決まった。5thライブ後から始めた遅めの就職活動にようやく一区切りがつき、来年度から東京の会社で働くことになった。つまり私は、研究者の道の外に出ることにしたのだ。

ではこれは、夢を諦めようとしたあの頃に戻ってしまったということなのだろうか。

そうではない。

 

今回の目的は、上述の記事の最後に書いた下のような問いに対して、今の私の答えを示すことにある。

実はここ最近、研究の道で「0」を「1」にしていこうと誓ったあの時の決断は、明確に揺らいでいる。

むしろ私は、違う世界で生きてみたいと思うようになってきている。

それとともに思う。あの時の決断は無意味なものだったのだろうか、と。誤りだったのだろうか、と。

結局最初に戻ってしまっただけではないか、と。

 

私はそれに対してどう答えたらいいのかまだわからずにいる。

私と『ラブライブ!サンシャイン‼』の「出会い」の物語 - MOMENT ICHIKING

私は次のように答えるつもりだ。あの時の決断は無意味なものではない、と。間違いではなかった、と。自分は最初に戻ったわけではない。と。

なぜか。それは、かつて夢を「諦める」というネガティブな意味しか持っていなかった選択肢が、今はひとつのポジティブな意味を持つようになったからだ。むしろ今の私は、これまで知らなかった外の世界へと航海をしてみたいと、積極的に思うようになったのである。

その背景には、『ラブライブ!サンシャイン‼』が私に運んだ思いがけぬ2つの出会いがある。

その1つ目は、私からは見えない場所で生きる様々な他者の「ダイスキ」との出会い。そして2つ目は、それと共振するようにして動く、自分自身との出会いだ。

たとえ「0」から「1」へと辿り着けなくても、『ラブライブ!サンシャイン‼』とともにあがいた日々にはちゃんと意味がある。この記事では、そんな答えを示すために、『ラブライブ!サンシャイン‼』が私に運んだこれら2つの出会いの話をしていきたい。

 

***

2.Aqours3rdライブツアーからの1年間

2-1.大学院生活の泥沼

まず最初に、私の大学院生活についての話をざっくりとしておこう。私が『ラブライブ!サンシャイン‼』に深くのめりこんでいき、ツイッターやブログを始め、他のラブライバーとの交流をするようになっていった1年間。その時間は、鬱屈とした大学院生活と表裏一体になっている。

 

すでに述べたように、私は研究者になろうと思って大学院に進学した。

しかし私はそこで自分の様々な「できなさ」と直面した。例えば、文献を読むのに集中できない。研究生活のペースがうまく作れない。話の全体的な構造を捉えたり説明したりするのが下手くそ。発表の準備を当日までに間に合わせられない…などなど。「研究のセンスがある」と言ってくれる人もいたりはしたが、これらの「できなさ」の多さに私の自信は打ち砕かれ、漠然とした劣等感に支配され、やる気も生きる気力も消失してしまっていた。1年留年し、いい加減諦めようと思ったのがAqours3rdライブツアーの少し前のことだ。

しかし、3rdライブツアーでAqoursの輝きを胸に刻み付けられた私は、「輝くことを諦めたくない」と感じ、もう一度「0」を「1」にする闘いをしてみようと決断する。上で挙げた5thライブの時の記事で語ったのは、そんなこころの動きについてだった( 私と『ラブライブ!サンシャイン‼』の「出会い」の物語 - MOMENT ICHIKING

 

その後の話をしよう。結論から言うなら、私は「0」を「1」にすることに失敗した。修士論文を提出できなかったのである。『ラブライブ!サンシャイン‼』の劇場版が公開された頃のことだった。結果、私はさらに1年留年することになり、今もこうして修士課程の大学院生の身分を続けている。

ところで、3rdライブツアーとちょうど同じ頃、私は自分の諸々の「できなさ」がADHDという発達障害の症状に当てはまることを知った。本格的な診断を受けたわけではないのでいわゆるグレーゾーンということになるが、その頃から精神科に通院し、現在に至るまでADHDの症状を緩和する薬を服用している。

自分の「できなさ」がADHDという概念のもとに包摂されたことで、私はそれまで掴みどころがなかった敵の形をようやく掴んだように感じた。この「できなさ」と上手く付き合う方法を見つければ、研究の世界で力を発揮できるようになるかもしれないと、私は希望を抱いた。そうして私は、自分の発達特性に合った勉強法は何だろうかと考え、それに合わせて研究生活のルールを決め、実行するようにした。一時は、(薬の効果もあって)それが軌道に乗ったように思った。

だが私の「できなさ」は思ったよりも手強かった。でき始めた研究生活のペースは、発表だとか勉強会のレジュメ担当だとかのイレギュラーな要素が入ってくるとたちまち崩れてしまい、すると「できなさ」がすっかり支配力を取り戻してしまうのである。一度研究生活のペースを崩したあと、私はそれを立て直せなくなり、そのままずるずると、上のような結末に辿りついたのだった。

 

修論の提出に失敗したあと、私は「よし、もう一度!」と、研究生活のペースを保つルールを改めて設けようとした。しかしイレギュラーをも処理できるようなルールはうまく作れず、私の研究生活は依然としてぐちゃぐちゃしたものであり続けた。

どうしたら自分の「できなさ」をコントロールすることができるのか。私の頭の中ではこの問いがぐるぐると回り続けた。そうしているうちに、私の視界をまた「できなさ」が霧のように覆うようになり、日々の息苦しさがだんだんと増していった。

 

3rdライブツアーから1年間、私はこういう大学院生活を送った。乗り越えたくても乗り越えられない自らの「できなさ」と、泥沼の闘いを続けた1年間だった。

 

2-2.『ラブライブ!サンシャイン‼』を介した繋がり

私が『ラブライブ!サンシャイン‼』にどんどんのめりこんでいったのは、そんな鬱屈とした大学院生活の裏でのことだ。

 

私は孤独だった。

ラブライブ!サンシャイン‼』は大学院生活における私のあがきを支えた。私は、繰り返し襲いくる「0」に抗うAqoursの姿と、ADHDがもたらす「できなさ」に抗う自分自身とを重ねた。彼女らの「0から1へ」という物語が、周囲から見たら落ちこぼれ学生でしかない私の日々に、物語を与えた。

だが私は、自分が今そういうふうにして生きているんだということを、周囲の人に上手く話せなかった。ラブライブを知らない人に対してだけでなく、いつも一緒にライブに行っている仲の良い友人に対しても、どう話したらいいのかわからなかった。だから、自分の日々に対して承認を与えてくれる人を見出せないまま、私は色々なものをひとりで抱え込むことになった。

 

ラブライブ!サンシャイン‼』のことを、そしてそれに動かされた自らのこころのことを「ブログ」という媒体を使って思いっきり語る人達の存在を知っていったのは、まさしくそんな中でのことだった。Web検索でたまたま出てきたものを読んだところから、そういう人達の繋がりがあるんだということを知っていき、特に、去年の夏から秋にかけて行われていた「ラブライブログアワード2018」が、『ラブライブ!サンシャイン‼』への「ダイスキ」を胸を張って語るたくさんの人達の存在を私に告げた。

ishidamashii.hatenablog.com

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そこにあったのは、私の知らない様々な場所で生きる人達の「語り」が織りなす、ひとつの空間だった。

 

私のこころは、まるで磁石のように、その語り達に惹かれていった。その力強い語り達が、『ラブライブ!サンシャイン‼』に支えられながらひとりもがいている自分を肯定してくれるような気がしたのだ。

そのうちに、私自身もその語りの空間に参加してみたいと思うようになった。そうして私は勇気を出して、Aqours4thライブの少し前、まずはツイッターラブライブ用アカウントを作り、さらにこのブログを始めた。どこにも出せなかったこころの叫びを誰かに知ってもらいたくて、自分の想いを言葉に全力で注ぎ込んだ。

そこから私の日々が変わっていった。私の言葉達に目を留めてくれた人達がいて、少しずつ感想が来て、リプをやり取りするようになった。自分も他の人のブログに感想を言うようになった。大学の人間関係を超えてネットで見知らぬ人と接するのは初めてだったが、私は一つ一つのやりとりに緊張しながらも、充実感を覚えた。やがて、ライブ会場でエンカをしたり、打ち上げに参加したりするようにもなった。

こうして、4thライブからファンミーティング、アジアツアー、5thライブと、時間をかけて少しずつ、人との繋がりが深まったり広がったりしていった。今ではそうした繋がりは私の日常のごく当たり前の一部となった。

 

泥沼の大学院生活を過ごす一方で、3rdライブツアーの後に過ごした1年間は、こんなふうに、『ラブライブ!サンシャイン‼』を介した繋がりを得ていった1年間でもあった。

では、繋がりの獲得というこの出来事は、結局のところどんな意味を持つ出来事だったのだろう。それをこの後、冒頭で述べたように、2つの出会いという仕方で語っていきたい。

 

***

3.研究者という夢への迷い

しかしその前に、今年の春から5thライブの頃にかけて私の中に生まれていった、夢のカタチへの迷いのことを語っておきたい。

 

先述のように私は、研究者という夢を目指しながらも、なかなか前に進めない息苦しい日々を過ごしていた。

そんな大学院生活の息苦しさは、『ラブライブ!サンシャイン‼』への関わり方が深まっていくのと並行して、ますます痛感されるようになった。それは、『ラブライブ!サンシャイン‼』に触れる時間の楽しさと、大学院生活の息苦しさとの落差があまりにも歴然としていたからだ。

例えば、苦しみ悶えながらブログを書いている時間。アジアツアー千葉公演に向かう夜行バス道中。あるいは打ち上げに参加していたら帰りの夜行バスに遅れそうになって、走っている時間。たとえ大変な時間であっても、『ラブライブ!サンシャイン‼』に触れている時間は、圧倒的に楽しくて、こころがポカポカした。そんな楽しさが、大学院生活の中で文献を読んでいる時間や発表原稿を書いている時間、つまり「できなさ」に立ち向かっている時間の息苦しさを際立たせていったのだ。

 

なぜ大学院生活にこれほどの息苦しさを感じるのだろうか。

そもそも研究は本当に自分のやりたいことなのだろうか。研究者になることは、本当に自分の夢なのだろうか。

落差を痛感するにつけて、こうした疑問が徐々に生まれていき、私の心を惑わしていった。

 

そんな中で、ひとつの真実が見えつつあった。

研究者という夢はそもそもどこからやって来たのだろうか。私は自問自答した。いろいろな要因がある。だが最も大きく影響していたのはきっと、育った環境だった。親が学問の世界に生きていたため、私には学問の世界がごく当たり前の場所で、むしろそれ以外の世界で生きる自分の姿が想像できなかった。それゆえ私は、ごく自然と、自分の生きるべき場所も学問の世界なんだと思い込んで育った。また、それ以外の場所で生きることを、まるでエデンの園から追放されるかのような絶望的な転落であるように感じていた。

そんなことを反省するにつれて見えてきた真実とは、次のようなものだった。研究者という夢は、「自分の生きるべき場所は学問の世界なんだ」という思い込みから生まれたものだったのかもしれない、と。つまり、この夢のカタチは、自分の意志によって選んだものというよりも、生まれつき刷り込まれた価値観に身を委ねた結果でしかないのかもしれない、と。そう、きっと私は、今の今まで、そんな思い込みの中で生きてきたのである。

その思い込みは自分にとってあまりにも自明で、自覚することが困難なものだった。また、それが思い込みであるということに目を向けるのも怖かった。私は、自分の生きるべき場所は学問の世界なんだ、と思っていたかったのだ。それが事実ではなく思い込みに過ぎないのだとすれば、どう生きていけばいいのか皆目見当がつかなくなってしまうから。

もしかしたら私の人生はこれまで、そんな思い込みに乗っ取られていたのかもしれない。つまり、研究者になるという夢にこだわっていた自分の奥底にいたのは、こうした思い込みに支配されている自分であり、こうした思い込みに依存して生きている自分だったのだ。

一番奥底にあったのは、研究のペースが作れないといった「できなさ」の問題ではなかった。研究者という夢のカタチ自体が、そもそも「やりたい」という意志を源泉としてはいなかった。そんな気付きが生まれつつあった。

 

いや、3rdライブツアーの頃、研究者になることを諦めようとしたあの時に、私はすでに一度この真実に気付いていたはずなのだ。だけども、「0から1へ」という物語を自分に当てはめることによって、この真実を再び隠ぺいしてしまったのだ。

では、私はあの時あのまま諦めるべきだったのだろうか。研究者の道でもう一度あがこうと考えたあの時の決断は間違っていたのだろうか。『ラブライブ!サンシャイン‼』に支えられてあがいたこの1年間は無駄な一年間だったのだろうか。研究者を目指すことに自分の輝きがあると思い込んできた私は、からっぽだったのだろうか。

絶望感が生まれ始めた。

 

だがその一方で、私がからっぽではないということを告げる何かもあった。それは『ラブライブ!サンシャイン‼』に触れる時間の「楽しさ」である。その楽しさは疑いえないものだった。なぜ自分がこの時間をこんなにも楽しいと感じるのか。その楽しさの正体はよくわからなかった。だが、自分はこの時間の中で何か大切なものに出会っているという感覚があった。そして、この感覚が、研究者という夢のカタチの奥底にある真実に向き合う勇気を、私に少しだけくれた。

 

こんな迷いが膨らんでいったのが、特に今年の4月から5月くらいにかけてのことだ。5thライブ直前に書いた記事はその葛藤から生まれたものだった。 

 

***

4.様々な他者のダイスキとの出会い

私は一体、何と出会っていたのだろうか。5thライブ前のあの頃、迷いの真っただ中にいた私は、きちんと言語化できるような仕方ではそれを自覚していなかった。だが、その迷いの中を通り抜け変化を受け容れる決断をした今の私には、もう少しだけはっきりとそれが見えている。『ラブライブ!サンシャイン‼』と「出会っ」て、それを心の支えとして過ごす中で、私のもとにはさらに思いがけない2つの出会いが訪れていたのである。ここからはそれを語っていきたい。

  

その出会いの1つ目は、私からは見えない場所で生きる様々な他者の「ダイスキ」との出会いだ。『ラブライブ!サンシャイン‼』を介して、私の生きる世界が、そんな他者のダイスキによって豊かに彩られるようになったのである。*2

 

人のブログを読むようになったことをきっかけに、私の中には、かつてよりもずっと多くの「語り」が流れ込んでくるようになった。ストーリーについて、キャラについて、キャストについて、音楽について——はじめは、そうした語りは単に、『ラブライブ!サンシャイン‼』に対する私自身の理解を豊かにしてくれるものとしてあった。しかし自ら交流していく中でだんだんと見えるようになったのは、語る「人」の姿だ。はじめは、諸々の語りは、語っている人とは結びついていなかった。語っている人のことを知らなかったから。だがやがてその語りが、語っている人のこころから出てきたものとして、言い換えるなら、その人のダイスキのあらわれとして見えるようになった。だから、結果として流れ込んでくるようになったのは、いろんな人たちの『ラブライブ!サンシャイン‼』に対するダイスキだった。

 

ダイスキとは何か。

そこには、色々な気持ちが渾然一体となって含まれている。

例えば、楽しいなあとか、可愛いなあとか、元気が出るなあとか。そんなシンプルな気持ち。

勇気をもらって、憧れて、自分を変えようとして、だけども思ったほどにはうまくいかなくて自己嫌悪に陥ったり。あるいは、他人の語り方や推し方のパワーに圧倒されて、すごいなあって思うとともに、それができない自分になんだか落ち込んだり。そんな複雑な気持ち。

でもまたAqoursに対面するとそんなものは全部吹き飛ばされて、やっぱり元気になって、なんだか「ありがとう」って言いたくなる。そんな不思議な気持ち。

喜びもあれば葛藤もある。『ラブライブ!サンシャイン‼』に対して抱く気持ちもあれば、自分自身に対して抱く気持ちもある。

ダイスキとは、そうした色々な気持ちの全てが絵の具のように混ざり合ってできあがった、熱くて大きくてキラキラした気持ちのこと。それはその人のこころを満たして、溢れ出して、なぜか最後には思いっきり笑顔にしてしまう。

 

私が接するようになったのは、年齢も仕事も学歴も住んでいる地域もバラバラな人達だった。それは『ラブライブ!サンシャイン‼』を介さなければ、絶対に人生が交わることはなかったであろう人達。私の生きる場所からは見えない場所で生きる人達。でも、バラバラな人生を歩んでいるのに、『ラブライブ!サンシャイン‼』がダイスキだというただその1点だけで、私たちの人生は束の間交わり合う。

 

私の『ラブライブ!サンシャイン‼』の中には、そんな人達のダイスキが流れ込んでくるようになった。アニメを観たりライブに参加したり曲を聴いていたりすると、「そういえばあの人がここについてこんなこと語ってたなあ」といったことが思い浮かぶ。劇場版を一人で映画館で観ている時でも、そこかしこの箇所で、そこについて語っていた人の顔(というかツイッターのアイコン)が思い浮かぶ。意識的に思い浮かべるわけでもないし、そこまではっきりと思い浮かべるわけでもない。ただ自然と、なんとなく、でも確かに思い浮かぶようになった。いつからか私は、私の見る『ラブライブ!サンシャイン‼』の中に、他者のダイスキを見るようになっていったのだ。それは気がつかないほどゆっくりした変化だった。だが確かな変化だった。『ラブライブ!サンシャイン‼』はいつしか、私自身の心の支えだということを超えて、他者のダイスキを汲み取る器のような存在へと変化していた。

 

そして、ダイスキの語りが織りなす空間が私に告げるのは、私からは見えない場所での様々な人生があるということだった。その語り達は、その人のこころを運ぶ言葉達。そしてそこには、その人の人生がほのかな仕方で映し出される。

それまで私は、自分の今生きている以外の場所で生きるということを、全く想像することができなかった。しかし今や、私の『ラブライブ!サンシャイン‼』を彩るようになった他者のダイスキ達が、私の生きる場所からは見えない場所にある人生を私にほのかな仕方で告げるようになっていた。目の前に広がるようになったダイスキの空間は、まるで水平線がその向こうの世界を告げるように、「セカイは広い」ということを私に教え続ける空間でもあったのだ。*3

 

ラブライブ!サンシャイン‼』が私の特別なものになった3rdライブツアーの頃、私の生きる世界には私とAqoursしかいなかった。けれども、ラブライブ!サンシャイン‼』に支えられながらもがいているうちに、私の生きる世界はいつのまにか、私からは見えない場所で生きる様々な他者のダイスキによって、鮮やかに彩られた世界になっていた。そんな他者のダイスキとの出会いが、『ラブライブ!サンシャイン‼』が私にもたらした、思いがけない一つ目の出会いだ。

 

***

5.他者のダイスキと共振して動く自分との出会い

ラブライブ!サンシャイン‼』が私にもたらした出会いの2つ目は、他者のダイスキと共振するようにして動く自分自身との出会いだ。

5-1.ブログから得た自己肯定感

私が手にしたちょっとした自己肯定感の話から始めよう。大学院生活で苦戦する一方、私はこのブログに、ささやかな自己肯定感の拠り所を見出すようになっていた。

このブログを始める前、自分は何もできないと私は思っていた。それまで過ごしてきた大学院生活がそう思わせるようになっていた。確かに「センスがある」と言ってくれる人も周りにはいたけれど、一体何を根拠に言っているのかがわからなくて、信じられなくなっていた。私の視界を占領していたのは「できなさ」だけだった。

そんな中ブログを始めてみて私が得た自己肯定感、それは「文章が書けた自分」に対する自信である。4thライブについて、劇場版について……。読者が多いわけではなかったが、一生懸命ダイスキを込めて書いた文章に目を留めて、感想をくれた人たちがいた。私の書いたものを「好き」だと言ってくれる人たちがいた。例えば、筋が通っていて明瞭だとか、ぼんやりと感じていたことが掴めたとか、あるいは、読みながら泣いてしまったとか……。そういう言葉のひとつひとつが嬉しかった。

 

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加えて、書くという行為は大変だけれども楽しかった。もやもやっと頭の中にあったことが、まるで木から彫り出されていく仏像のように、言葉によってかたどられて見えるようになっていく過程。それが気持ちいいのだ。

大学院生活で感じていた「できなさ」には、文章の書けなさも含まれていた。適切な問いを設定するのに苦戦したり、議論がぐちゃぐちゃしたり、書くスピードがめちゃくちゃ遅かったり…。

だから、ブログで『ラブライブ!サンシャイン‼』のことを語った文章を、ダイスキを注ぎ込んだ文章を良いと言ってくれる人がいたことが、私には救いだったのだ。私は何もできないわけではないのだと思えた。誰かのこころに届く文章が書けたんだ、と。こうして、「文章が書けた自分」がここにいるという事実が、私にささやかな自己肯定感を与えた。

 

5-2.研究とブログの類似と相違

だが、この「文章が書けた自分」とは一体何だったのだろう。

 

私は、しばらくの間、この「文章が書けた自分」に、自分もいつか研究の世界でやっていけるようになるんだという希望を見出していた。

というのも、私ははじめ、研究とブログを同種の活動だと捉えたからだ。人文学系の学問に従事する研究者の仕事は、読む・考える・書くの3つである。また研究の対象になるのは何らかのテクスト、ざっくり言えば作品である。だから、具体的な対象は違うとはいえ、「何らかの作品について思考を巡らせ、語る」という点で、両者が類似しているように見えたのである。

だから、「文章が書けた自分」とは「文章を書く能力がある自分」なんだと、そしてそれは「研究の世界で輝く自分」の卵なんだと私はしばらく思っていた。

 

しかし、私が見つけた「文章が書けた自分」の正体は本当はもっと別のものなのではないか。私はやがてそう感じるようになっていく。それは、ブログと研究との間に大きな違いを感じるようになったからだ。その違いとは、ダイスキを素直に注ぎ込むことの許される場かどうかという違いである。

 

まず、ブログはダイスキを素直に注ぎ込むことの許される場だった。

ラブライブ!サンシャイン‼』についての語りの場は、ダイスキによって織りなされる空間だ。私のブログも、他の人達のブログも、その一部をなしている。この空間を行き交う言葉達は、ダイスキを運ぶ言葉達である。それは、作品についての語りがそのまま語り手自身のこころについての語りにもなってしまうような、そんな言葉達。語り手のこころを運ぶ言葉達だ。スタイルは全く人それぞれ。「感想」だとか「考察」だとか「自分語り」だとか称して、みんな色々な語り方をする。やわらかい言葉もあれば、かたい言葉もある。だけどもその言葉たちのいずれにも、その人のダイスキが注ぎ込まれていて、その人のこころが映し出されているのである。

つまりそこは、ダイスキに浸る自分が素直に息をすることができる空間だった。

 

一方、研究はダイスキを素直に注ぎ込むことの許されない場だった。

ものすごくざっくりと言うが、研究、というより学問は一般に、物事への「主観的」な見方から脱出し「客観的」な見方——真理——を目指していこうとする活動である。「無知の知」というスローガンで言い表されるように、そこでは、無知を自覚し、より優れた知に向かってそれを批判的に乗り越え続ける姿勢が求められる。そして、このような学問の理念のもとでは、素直にダイスキに浸るということは、ある仕方で否定されざるを得なかった。ダイスキという経験。知識も何も関係なく、その作品を素敵だなあと思って、そこからいろいろな力をもらって、憧れて、自分の日常に向き合って、いろいろな喜びや葛藤を抱きながら、最後にはその作品に対してやっぱり「ありがとう」と思って、そして、笑顔になってしまう、そんな経験。学問の空間において求められるのは、そんな経験の外に出ることだった。主観的な見方から脱出するとはそういうことなのである。そんな中では、ダイスキに没頭する素朴な経験は、無知というラベルを与えられ、劣ったものとみなされざるを得ない。この空間を行き交う言葉達は、知を運ぶ言葉達。それは徹頭徹尾、作品という対象についての語りでなくてはならず、そこに語り手のダイスキの居場所は存在しない。

つまり、学問あるいは研究の場はその性質上、ダイスキが息ができなくなる空間だった。


当たり前の違いといえばそうなのだが、私がこのような違いを感じるようになったのは、先述したような「楽しさ」と「息苦しさ」との落差を痛感する中でのことだった。つまり、「楽しさ」と「息苦しさ」の落差は2つの場の間のこのような性質の違いと関連しているのではないか、と思ったのだ。

それとともに私は気付き始めた。研究の空間の中で上手く泳げなかった自分が『ラブライブ!サンシャイン‼』について「書く」ことができた理由も、この違いにあるのかもしれない、と。そこがダイスキの注ぎ込まれた言葉達の織りなす空間だったからこそ、私自身も言葉を紡ぐことができたのかもしれない、と。

 

5-3.他者のダイスキと共振して動く自分

ブログを始めることで私が出会った「文章が書けた自分」。きっとそれは「研究ができるかどうか」とは全く違う次元にある何かなのだ。ではそれは一体何だったのだろうか。5thライブの頃はまだぼんやりとしか自覚できていなかったものを、今、言語化してみたい。

 

まずおそらく、ラブライブ!サンシャイン‼』について「書く」ということができたのは、自分のダイスキを語りたいという「衝動」があったからだ。書くという活動は決して楽な活動ではない。私はいつも「書けなさ」と闘い悶え苦しみながら書くのである。では、その苦痛を乗り越えることを可能にしたものは何か。それは、たとえ苦しくてもダイスキを語りたいという衝動である。言い替えるなら、「書く能力がある自分」がいたからではなく「書きたい自分」がいたから、書くことができたのだ。

 

同時に重要なのは、この衝動が、私ひとりの力だけでは存在できないものだったということだ。なぜなら、この衝動を私の中に生じさせたのも、この衝動から生まれた言葉達に居場所を与えてくれたのもすべて、私の生きる場所からは見えない場所で生きる様々な他者のダイスキによって織りなされた、あの空間だったからだ。

ラブライブ!サンシャイン‼』へのダイスキ。その語り手達は、私とは年齢も仕事も学歴も住んでいる地域も異なっていて、『ラブライブ!サンシャイン‼』を介さなければ人生が交わることはなかったであろう人達だった。でも、ダイスキを語る言葉たちは、普通に過ごしていたら知る由もないそんな人達のこころを、私からは見えない場所にある人生を、私に教える。彼らは多分、ごくごく普通の人たち。だけど、ダイスキの言葉が映し出すその人達のこころは、いろんな喜びと葛藤を内に含んで、キラキラと輝いていて、なんだかかっこよくて。自分もこうありたいなあと憧れを覚えてしまったりして。同時に、いや自分にだってキラキラしたダイスキがあるんだぜと、自分のダイスキを聞かせてやりたい衝動が生まれてきて。すると、ダイスキを運ぶ言葉が私のこころからも紡がれ始める。

こうやって様々な他者のダイスキといわば「共振」するこころの動きがあったからこそ、私は文章を書くことができたのである。*4

 

ブログを始めたことで見つけた「文章が書けた自分」の正体がまさにここにある。私は気付かぬうちにひとつの新しい自分に出会っていたのだ。まずそれは、「できるかどうか」とは全く違う次元、つまり「やりたいかどうか」という次元にいる自分。そして、その自分が動くのは、他者のダイスキに衝き動かされることによってだった。だから私が出会っていたのは、他者のダイスキと共振するようにして動く、自分自身のこころだった。

これが、『ラブライブ!サンシャイン‼』が私に運んだ、思いがけない2つ目の出会いだ。

 

離れたところから他者のダイスキが届くと、ふるわせられる。衝き動かされる。輝き出す。まるで、磁石のように。「文章が書けた自分」の源にあったのはそんな、衝動的な、こころだ。それを試しにこう呼んでみよう。

「ハートの磁石」、と。*5

この石は、ダイスキという磁力で運動する。他者のダイスキが届かないとただの石ころにすぎないが、ダイスキが届く空間ではそれはどんどん動いていく。輝いていく。そしてダイスキが届く限り、輝き続けることができる。

ブログを始めたことで得たささやかな自己肯定感。それはきっと、握った手に感じるようになった、ハートの磁石の感触への誇らしさだったのだろう。今の私はそういうふうに理解している。

 

***

6.ハートの磁石を握って

これまで寄りすがってきた夢のカタチの空虚さに気が付いても、なおも自分がからっぽではないと思えたのはなぜか。その空虚さと向き合う勇気を持てたのはなぜか。既に述べたようにそれは、『ラブライブ!サンシャイン‼』に触れる時間の中で何かかけがえのないものに出会っているという、ぼんやりとした実感があったからだ。

 

私が出会っていたもの。それは、私の生きる場所からは見えない場所で生きる様々な他者のダイスキであり、そして、そんな他者のダイスキに共振するようにして動く自分自身のこころ——ハートの磁石——である。

 

これらの出会いによって私は、これまで人生をともにしてきた夢のカタチを捨てても大丈夫だと、ようやく思えるようになった。そして、それを捨ててみることにした。

 

ただし重要なのは、これがもう私にとって夢を「諦める」というネガティブな選択ではないということだ。

それまで私は、自分の今生きている以外の場所で生きるということを、全く想像することができなかった。でも今は、『ラブライブ!サンシャイン‼』を彩るようになった他者のダイスキ達が、私の生きる場所とは違う場所にある人生を私に告げる。ダイスキの水平線が、世界は広いということを私に告げる。そして、そんなダイスキに共振して動き始めるハートの磁石がここにあるということを、今の私は知っている。今の私は、このハートの磁石さえあればどこへ行っても航海を続けられるような気すらしている。

私がこれまでの夢の形を捨ててみようと決めたのは、視界に広がるようになったダイスキの水平線と、掌に感じるようになったこのハートの磁石の感触を、何よりも大切にしていきたいと思ったからに他ならない。今まで自分がとらわれていたどんな思い込みからも自由な——ただハートの磁石にだけ身を任せた——航海をしていくために。

だから、夢のカタチを捨てるという選択は、もう「諦める」というネガティブな意味を持ってはいないのである。

 

本記事は、Aqours3rdライブツアーの時にした決断、つまり研究者の道でもう一度あがいてみようという決断が間違ったものではなかったということを述べるために書いてきたものだ。あの時の決断は間違っていなかったし、むしろ今の自分に辿り着くために必要なことだったのだと、今では思う。

一番叶えたい願いは叶えられず、また「0」に戻ったような気もした。けれど、私の中にはいろんな宝物が生まれていて、それは絶対に消えるものではない。

今の私を作っているのはその宝物達で、その宝物達を大切にした生き方をするためにこそ、今、私はこれまでの夢のカタチに背を向けるのだ。

そういえば、3rdライブツアーの頃、私の背中を一番強く押したのはこの台詞だった。

千歌:うん、何も見えなかった。でもね、だから思った、続けなきゃって。私、まだ何も見えてないんだって。先にあるものが何なのか。このまま続けても0なのか。それとも1になるのか、10になるのか。ここでやめたら全部わからないままだって。

(『ラブライブ!サンシャイン‼』テレビアニメ第1期第8話)

私は今、あの頃の私へと教えてあげたい。「0」は「1」にも「10」にもならない。だけどキセキは起こると知ったよ、と。あの時諦めなかったからこそ見えるようになったものがある。だから、あの時にあのまま諦めるべきだったなどということは、決して無いのである

 

さて、私の新しい夢のカタチは何だろう。

5thライブが終わった後から今まで、私は夢のカタチを探してみた。色々なものと出会った。『ラブライブ!サンシャイン‼』の空間ではない場所でも、その場所なりのダイスキがあって、そうしたダイスキと出会うと、私のハートの磁石はその度に引き寄せられる。そんな中で私は、ハートの磁石を握っているとどんどん夢のカタチは変わるんだということを知った。ひとまず私は、夢のカタチをひとつ選んでみた。

 

きっと、これからもっともっと夢のカタチは変わるのだろう。

この広い海の中で私は、夢のカタチを探して泣いたり笑ったりしながら、終わらない航海をしていくのだろう。

でも大丈夫だ。

目の前に広がるダイスキの水平線が、すべてを見守りながら、世界は広いということを教えている。

さあ航海に出よう。

気まぐれに行き先を告げる、このハートの磁石を握って。

 

 

 

 

 

 ***Thank you for reading***

 

※2019/11/7、①「夢のカタチ」、②「ダイスキ」、③「水平線」、④「共振」、⑤「ハートの磁石」の各フレーズの元となったAqours楽曲の歌詞を脚注に追記しました。

*1:「未来をどうしようかな⁉ みんな夢のカタチを探して 泣いたり笑ったり」(Aqours未来の僕らは知ってるよ」, 作詞:畑亜貴, 2017年)

「これからもっともっと 夢のカタチ変わるんだ」(Aqours「未体験HORIZON」, 作詞:畑亜貴, 2019年)

*2:「このひかりは(きれいだよね) もっとキラリ(まぶしい希望)  ダイスキがあればダイジョウブさ」(Aqoursダイスキだったらダイジョウブ!」, 作詞:畑亜貴, 2016年)

*3:「海へと沈むけど 海から昇るんだ 月も太陽も あの水平線は すべてを見守りながら セカイは広いってことを教えてる?」(Aqours「未体験HORIZON」, 作詞:畑亜貴, 2019年)

*4:「君とのResonance...感じてる」(Aqours「Deep Resonance」, 作詞:畑亜貴, 2019年)

*5:「(希望でいっぱいの)今日が明日を引きよせるんだと ハートの磁石をにぎって走る いまは楽しいんだそれが!」(Aqours未来の僕らは知ってるよ」, 作詞:畑亜貴, 2017年)