深呼吸の時間

ラブライブとか,読書とか

果南誕に寄せて🐬

 

 

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果南ちゃん ,お誕生日おめでとおおおおおおおおおおおおお!!!!!!🐬🐬🐬🐬🐬🐬🐬🐬🐬

 

 

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  はいこんにちは。

 1日遅れてしまったが,せっかくの推しの誕生日が来たので,今から松浦果南について少し思いを巡らせてみようと思う。

 今回は2つの話を通して,果南の内面に思いを馳せてみたい。一つは,1年生の頃の果南についての話。もう一つは,劇場版の果南(というより3年生3人)についての話だ。あまりまとまりがある話でもないのだが,少々お付き合いいただければ幸いである。

 

 

 

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「ほんとはせいせいしてんだけどね。やっとこれで終わりだって」

 2期12話,「勝ちたい?」と問いかけてきた千歌に果南が言った言葉だ。もちろん,単に照れ隠しで茶化しただけとも取れる。だが,他のメンバーが皆ポジティブなことを言っている中で,果南のこの言葉は印象的である。果南は,スクールアイドルとして過ごしてきた日々に対して,どのような思いを持っていたのだろうか。きっと,この言葉の背景には,これまでの日々に対する複雑な思いがあったのだろう。

 

 1年生の頃の果南について少し考えてみたい。

 昔から私の中に一つ疑問があった。東京でのイベントで,果南は歌わなかったのか歌えなかったのか,どちらなのだろうというものだ。これに関するダイヤの語りには揺れがある。1期9話によれば,怪我をしていた鞠莉のためにわざと歌わなかったというのが真相なのだという。だが,会場の空気に圧倒されて歌えなかったと語る8話のダイヤが,まるっきり嘘をついている感じもしない。実際のところ,果南は声を出さないことをどの程度自分の意志で選んだのだろうか。

 私が思うのは,ここには,劇中で明示的に語られた以上の感情が重苦しく絡んでいたはずだということだ。

 

 浦の星女学院を救うためにと鞠莉をスクールアイドルに誘ったのは果南だった。当時の果南たちは,Saint Snowのようにがむしゃらにラブライブを目指したのだろう。しかしハードな練習を重ねる中で,鞠莉は無理をして怪我をしてしまった。それと並行して果南の耳に入る,鞠莉の留学の話。そんな中で,それまでキラキラと輝いていたスクールアイドルへの気持ちに,果南の中で陰りが生じ始めたのだろう。

 東京でのイベントの当日,果南の奥底に巣食っていたのは,きっとある種の,自己嫌悪にも似た迷いである。

 自分が無理やり引き込んだスクールアイドル活動で親友に怪我をさせてしまった。そして今,彼女の将来の可能性までも奪いそうになってしまっている。親友の将来を犠牲にしてまでスクールアイドル活動をやる意味がいったいどこにあるのだろうか? そもそもスクールアイドル活動で学校を救えるのかなんてわからないのに。今まで突っ走ってきたのは,ただの自分のエゴイズムでしかなかったのではないのか?

 こんな迷いの中では,鞠莉に無理をさせてまで歌おうなどと思えるわけがなかっただろうし,圧倒してくる会場の空気に抗おうという気概も持てなかったに違いない。もしかすると果南は,歌うつもりでステージには立ったのかもしれない。でもきっと,このどうしようもない迷いのゆえに,声を出すことができなかったのだ。

 

 歌えなかったのか,自分の意志でわざと歌わなかったのか。その理由は何だったのか。そこに明確な線を引こうとする意味はあまり無いのだろう。果南は歌わないことを選んだのかもしれないが,それを果南に選ばせたのは,彼女の中に重苦しく巣食っていたスクールアイドルへの迷いである。あの日の果南は,歌わないことしか選べなかったのだ。

 当時の果南が足をとらわれたのは,鞠莉の母が劇場版で投げかけたのと同じ種類の問いだったと言えるかもしれない。それはスクールアイドルをやる意味に関する問いである。スクールアイドルをやる今と親友の将来の可能性とが天秤にかかったとき,果たしてスクールアイドルを選ぶことなどできるのか。親友思いの優しい少女は,この問いを一人で抱え込んでしまったのだった。

 

 果南の中には,おそらく二重の後悔がある。一つは,スクールアイドル活動にがむしゃらになるあまり,鞠莉を傷つけ,彼女の将来の可能性をも奪いかねなかったことへの後悔。それは一種の自責の念である。もう一つは,その気持ちを鞠莉に素直に伝えられなかったために,彼女と長い間すれ違うことになってしまったことへの後悔。3年生になり千歌たちと活動した日々の中でも,過去の自分への後悔や嫌悪はしばしば果南の頭をよぎったことだろう。

 「せいせいしてる」と果南が言うのは,1年生の頃も3年生になってからも,彼女にとって,スクールアイドルとして過ごした時間がある種の痛みを伴った時間だったからである。もちろんこの言葉で彼女は,これまで過ごしてきた日々を否定したいわけではない。すれちがっていた時間も含めた3年間の全てが,果南や鞠莉,ダイヤを今の彼女らへと育てた。それは,思い切り悩んだからこその,友の大切さを噛みしめたかけがえのない3年間である。苦しい時間だったことは事実で,だけどもいとおしい時間でもあって—— 茶化すように放たれた言葉からは,そんな複雑な思いがにじみ出ている。

 

 

 

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 苦しんだからこその,いとおしい3年間。しかしそれは過去になっていき,自分は新しい場所で新しい日々を始めなくてはならない。果南はこの現実を,どのようにして受け入れていったのだろうか。

 ここからは劇場版の話をしよう。

 劇場版は,新しいAqoursを始める千歌たち6人に焦点を合わせた話である。その中で,劇場版の3年生3人は,堂々としていて一見何の不安も持っていないように見える。だが,前に進むために立ち止まらなくてはならなかった千歌たち同様,劇場版で描かれたあの時間は,実は果南たち3人にとっても必要なものだったのではないか。そんな深読みを少し展開してみたい。

 

 果南たちの中には本当に不安が無かっただろうか。「空はつながっている」 そんなふうに自ら言い聞かせて前に進もうとはしながらも,やはり彼女らの中には,ある種の恐れがありはしなかっただろうか。それは,3人の大切な3年間が過去へと遠のいていってしまうことへの恐れ,そして新しい場所でゼロからスタートしなくてはならないことへの恐れである。

 イタリアでの逃避行は,ひょっとするとそんな思いの反映でもあったのではないだろうかと思う。このままずっと一緒に,どこまでも行ってしまえるんじゃないか——。大人になっていくという現実を忘れていられる,3人だけの時間。きっとあの逃避行は,彼女らにとってそんな時間だったことだろう。

 もしそうだとするならば,果南たち3人もまた,強がることなく自然と前に進めるようになるための何かを,本当は必要としていたとは言えないだろうか。

 

千歌:帰ろう。全部全部全部ここにある。ここに残っている。ゼロには、絶対ならないんだよ。私たちの中に残って、ずっとそばにいる。ずっと一緒に歩いていく。全部、私達の一部なんだよ。

 ゼロにはならない。浦の星女学院Aqoursも全部,ずっとずっと自分たちの中に残っていく。だからただ前に進めばいい——劇場版で千歌たちが辿り着くこの認識に,果南たちは初めから辿り着いていたようにも見える。「気持ちはずっとここにあるよ」という果南の言葉,「私がここまでみんなと歩んできたことは,全てもう私の一部なの」という鞠莉の言葉,こうした言葉が出てくるのは,彼女らがこの認識にすでに行き着いていたことの現れなのかもしれない。しかしそうだったとしても,果南たちの中でそれはどこまで確かなものだっただろうか。

  「全部ここにある」という認識は,揺るぎない事実というよりもむしろ,ある種の“物語”と言った方がいいのではないかと思う。ここでいう物語とは,過去と現在と未来を解釈する上での,物事の“語り方”,“捉え方”のことである。それは,事実のようには確かめることのできない,正しいと信じるほかはないような類のものだ。

 果南たちが上の認識にすでに行き着いていたとしても,それは,まだどこか確からしさを欠いたものだったに違いない。なぜなら,それは果南たち3人の中だけで保持された不安定な物語にすぎなかったからである。

 

  では,ある物語を確固とした仕方で信じるために必要なものは何だろうか。それは,同じ物語を共有しともに承認する“他者”である。そして果南たちにとってその他者とは,千歌たち6人のことに他ならない。

 千歌たち6人は,イタリアから戻ってきた後,少しずつ前に進み始める。その中で彼女らの内に芽生えていく,これまでの時間が自分たちの中に確かに息づいているという確信。それを胸に千歌たちは,新しいAqoursへと力強く踏み出していく。「全部ここにある」という物語は,もう果南たちだけのものではない。それは今や,今までともに走ってきた9人全員に共有された物語である。

 千歌たちという,同じ物語を信じる他者がいるという事実が,果南たちの信じようとする物語を確かなものへと変えていく。そうして3人は,強がることなく自然と前に進めるようになっていく。9人で再び時間を過ごし,一つの物語を共有したということ。自分たちと同じ物語を信じて前に進もうとしている6人の姿を,見届けたということ。このことこそが,果南たち3人を,前に進むことへの恐れから真に解き放ったのではないだろうか。

 

 悩み苦しんだからこその,いとおしい3年間。その3年間は過去になり,自分たちはそれぞれの場所で新しい日々を始めなくてはならない。

 劇場版で描かれたあの時間は,果南たち3人がそんな現実を消化し,旅立つための勇気を手にするまでの時間でもあったのではないかと思う。劇場版のエンディング曲Next SPARKLING!! をステージ上で歌うのは千歌たち6人だが,この曲は決して彼女らだけの曲ではない。きっと,果南たち3人も,同じメロディを口ずさみながらそれぞれの場所へ旅立っていったことだろう。そしてその心の中には千歌たち6人も一緒にいたことだろう。9人で歌うあの心象風景は,果南たち3人の心象風景でもあるはずなのだ。

 6人が前に進むためには3人と過ごす時間が必要だったが,3人が前に進むためにもまた,6人と過ごす時間が必要だった。そう思えば,少し素敵ではないだろうか。

 

 

 

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私は松浦果南が好きだ。

一見さばさばしているけれど,友達を思う優しさゆえにしばしば悩み,それを自分の中に抱え込んでしまう。私は,そんな少し不器用な果南が好きで,そんな果南が悩みながら懸命に生きてきた時間が好きだ。

そして,だからこそ,彼女が楽しそうに笑っている姿が大好きでもある。

 

果南は今頃どこで何をしているだろうか。

今も海外でダイビングの修行をしているだろうか。

鞠莉やダイヤを想って,たまに空を見上げているだろうか。

果南の行き先は劇中で明示されていないが,オーストラリアというイメージがある。いろんなところの海に潜って,魚と戯れているだろうか。現地の子どもたちと仲良くなって,ダンスを教えている姿なんかも想像できる。あるいは,そんな中で全然違う道を見つけて,そっちに進んだりしていても面白い。

いずれにせよ,今の果南が笑顔でいてくれたなら嬉しいと,私は思う。

 

 

 

 

 

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というわけで果南ちゃん,改めて,お誕生日おめでとう!🎂

 

🐬🐬🐬Thank you for reading🐬🐬🐬